患者の意志を尊重したら、家族の意志を殺してしまった話

相手の気持ちを尊重しましょう。

うん、頭ではわかっている。でも、心がどうしてもいうことを聞いてくれない。相手を尊重するということは、自分を下げること、もしくは、はじめからなかったことにするということだ。

私は人間が立派にできていない。
だから、私はどうなるの?と思ってしまう。
決して、口に出して言うことはないけれど。

大人であっても、いや、大人だからこそこういう状況に陥ってしまうこと、誰もがあるのではないだろうか。


この、相手の気持ちを尊重しましょうという考えや文章に触れるたび、私はある患者さんを思い出す。

その人は、石井さん(仮)
笑顔のやわらかい男性患者さんだった。

彼は自分で話せなくなるまで、ある意志を貫き通す。
もちろん、私たち医療者はそれを尊重したのだが、予想もしなかった波紋を呼ぶことになる。

相手を尊重するって至極真っ当なように聞こえるが、実はとても難しい。

石井さんが命をかけて考えるきっかけをくれた事例、このマガジンで紹介していくこととする。

他の患者さんとのエピソードはこちらから。


手術はいつも、キケンと隣り合わせ

石井さんと出会ったのは、夏のはじまりだった。

石井さんは60歳の男性患者。
ずっと独り身で、頼れる身寄りはなし。

病名は胆管がん。
胆のうや肝臓と十二指腸を繋ぐルートを胆管と言うが、そこががんになってしまう病気だ。

今回の入院目的は、手術。
その手術名は、PPPDと呼ばれるもの。

略語だとわからない!という声も飛んできそうだが、日本語名だと「全胃幽門輪温存膵頭十二指腸切除術」
こちらのほうが圧が強いと思われるので、以後PPPDに統一させていただく。

この手術方法、ざっくり説明すると、幽門という胃の下側の部分を残しつつ、胆管を含む膵臓の一部、十二指腸をがんとともに切り取って再建するというものだ。

この再建というのが、この手術のポイント。
例えば、大腸がんの場合、がんを取り除き、切った腸の先端同士を縫い合わせたら手術は終わりだ。

けれども、このPPPDという手術は切った先端が3つ以上出てくる。
胃、膵臓、胆管、小腸だ。

これらをうまく組み合わせて、なんとか消化・吸収できるような構造にしないといけない。

例えるなら、大腸がパスタのペンネだとすると、胆管ってそうめんみたいな感じ。乱暴に言うと、そうめんとペンネを針と糸で縫い合わせる手術なのだ。

当然、手術の難易度は高い。

(知りたいという奇特な人のために、術式のリンクを貼っておきます……)

そして、手術による合併症も多く、その頻度も他の消化器の手術に比べて高い。

今回の石井さんも、術後に合併症を発症してしまった。

それは、縫合不全というもの。ペンネとそうめんを縫い合わせたところがうまくくっつかず、本来縫い合わせたところを通るはずの消化液が、消化管の外(腹腔内)に漏れてしまう状態をいう。

ここでいきなりだが、膵臓(すいぞう)という臓器を紹介したい。
胃のちょっと後ろ側にある、インスリンと呼ばれる血糖値を下げるホルモンを産生する臓器だ。

テレビやメディアでは、インスリンにフォーカスした紹介が多いが、本来の大きな役割は消化だ。

炭水化物、タンパク質、脂肪すべてを分解できる消化酵素を産生・分泌する。キングオブ消化酵素なのだ。

これが、消化管の外へ漏れて腹腔内に広がると、どうなるか。
想像してみて欲しい。



そう、臓器が溶けてしまうのだ。
自傷行為にもほどがある。

なんで膵臓は平気なの?という質問は、胃はなんで溶けないの?と同じような理屈なので、今回は割愛させていただく。ここで説明していると、完全に解剖生理学教室noteになってしまう。


石井さんの縫合不全は、日に日に拡大していった。
当然、どんどん具合が悪くなり、ナースステーションと繋がった部屋で管理をするも一向に改善しない。

画像による検査で縫合不全を確認した4日後、ついに傷口も開き始める。

ピンホールほどの大きさだった穴は、みるみるうちに広がり、ついには傷口がフルオープンの状態に。

このPPPDという手術方法は、縫合不全=消化液の漏れが最大にして最悪の合併症だ。

これを少しでも防御・緩和するために、縫合不全が起こりやすい場所にあらかじめドレーンと呼ばれる管を術中に留置し、皮膚に縫い合わせて体外へ排出させる。体内に体液がたまると感染のリスクもあがってしまうので、それを防ぐ目的もある。

詳細を知りたい方は、以下のリンクからどうぞ。

しかし、傷口がフルオープンとなった今、もはやドレーンはお飾りだった。本来、ドレーンを介して体外へ排出されるべき消化液(排液)は、フルオープンとなった場所からガーゼで吸わせていた。ドレーンの意味よ。


すっかり石井さん本人を置いてけぼりにしてしまったが、石井さんは傷口というよりお腹全体の痛み、連日40℃を超える熱発、2時間おきのお腹の処置で心身ともに参っていた。

もちろん、食事などとれる状況ではない。点滴とドレーンとモニター類に囲まれた24時間。否応なしに、寝たきりの状態だった。

俺、本当に元気になれるのかな…?

石井さんの本音が漏れた瞬間、さらに状況を悪化させる出来事が起こる。


「連絡したい人は、本当にいませんか?」

さきほど、縫合不全は消化液が漏れること、そして臓器を溶かしてしまうことが問題という話をした。

実は、もうひとつ、溶けてしまっては困るものがある。

それは、血管だ。
お腹の奥底には太く大きな動脈が走っている。
ここが溶けたら、さすがにこれを読んでいる皆さんも、どういうことが起こるか想像がつくはずだ。


あれは、私が日勤で石井さんを見ていた夕方だった。
満を持して、急変する。

お腹から鮮血の出血が止まらない。
その瞬間、消化液が動脈に到達したんだとすぐにわかった。

すぐに担当医をコールする。
石井さんの顔色は青ざめ、冷や汗をかいていた。
意識がどんどん遠くなっていくのがわかる。
血圧は、測れない状態だった。

お腹からの出血は、依然止まらない。
手で思い切り押さえて圧迫しているのに、30枚当てたガーゼが10分もしないうちに血液でひたひたになる。

もう病棟での管理は限界だった。
救命センターで、全身管理をする運びとなる。

全身管理なんて聞きなれない言葉を出してしまったが、いわゆる救命病棟24時に出てくるような患者さんの状態だ。

人工呼吸器を装着し、心臓や肺に変わる大きな機械を身体に取り付け、薬を使って意識を飛ばす。

なぜ意識を飛ばすのかと言えば、意識のある状態のまま呼吸器をつけたら、患者さんが苦しくて外そうとしてしまうからだ。

自分のタイミングで呼吸ができないのだから、苦しくて当然。それを防ぐために、鎮静という手段を用いて意識を飛ばし、呼吸を管理する。

ここでの重大なポイントは、本人の意識がなくなってしまうこと。
だから、人工呼吸器装着前のタイミングが、本人の意思確認ができる最後の瞬間になる。

多くの場合、どこまで治療をするか、連絡したい人はいないかなどを確認する。石井さんの場合も同様だった。

血縁や身内じゃなくても、構いません。連絡したい人、本当にいませんか?

実は、このセリフ、入院当初から何度も聞いてきたものだった。

なぜなら、多くの日本の医療現場では、本人の意識がなくなってからの治療方針の決定は家族やキーパーソンに委ねられる。

そうでなくても、石井さんは大きな手術を受けている。術中になにか起こることも0じゃない。もし、そうなってしまった時の代理決定者として、家族もしくはキーパーソンの聞き取りは、医療従事者として必須項目だったのだ。

しかし、だ。
何度聞いても

俺には家族なんていない。ずっと一人で生きてきたんだ。

の一点張り。

けれども、これは看護師の勘と呼ばれるものなのだろう。身寄りがなくずっと独身と本人は言っていたが、おそらく婚姻歴があるような雰囲気だった。

手術前、お孫さんのような年齢の子を見る視線や、お見舞いにきた娘くらいの家族をみる眼差しが優しすぎて、ずっとひとりで生きてきたようなそれじゃなかった。家族と愛ある時間を過ごした経験のある、そういう佇まい。

だから、手術前も後も、具合が悪くなってしまったあとも、何度も何度も聞いた。けれども、石井さんは口を割らなかった。


命を救うということ

たぶん、石井さんは自分が助かると思っていた。
助けてくれると信じていた、と言い換えてもいいかもしれない。

ただ、もう、他に言葉の選びようがないのだけど、あの時点で石井さんが助かる確率はほぼ0だった。

いやいや、救命センターに行くんだから助けるんじゃないの?
と、思う人がほとんどだと思うが、救命センターだってホグワーツじゃない。事実、マグルである私たちには、叶えてあげられないことのほうが圧倒的に多い。

基本的に、病気を治すために患者さんは病院へやってくる。
痛いことをはじめ、苦しいことや辛いことが待ち受けているとわかっているのに。

そして、どの患者さんも、望んで手術台に上がるわけじゃない。
それしか助かる方法がないから、仕方なく上がるのだ。

だから、治療中に他のトラブルや障害が起こっても、基本的に全力で治療・救命するのが大前提。たとえ、その先に患者さんのしあわせがあるかどうか、不透明であったとしても。

当然、石井さんもがんを手術で取りに来た人=積極的な治療を望んでいる人とみなされ、全力の治療がおこなわれる。

そして、これは補足になるが、外科医からすると術後2週間以内の患者の死亡はマイナスの評価になる場合がある。

罪に問われたり降格処分になることは滅多にないが、症例としては失敗になってしまうのだ。手術のせいで患者は死んだ可能性が高い、と。

多くの大学病院は、医療機関であると同時に教育・研究機関でもある。表現に人間味がないことをどうか許してほしいのだが、手術はそのまま症例、研究データとして用いられることが多い。

手術のせいで患者が死ぬという結果は、そのまま研究結果、論文の信憑性、そして病院の評判にも大きく影響していく。

そういう事情もあって、たとえ勝率が0に近くても担当医はなんとか石井さんを救おうとする。むしろ、医者は患者の命を救うことが仕事、これが正しい判断なのだ。

けれども、担当医の本心を聞いておきたかった。

先生、石井さんって、もって何ヶ月だと思いますか……?

きっと、私のそれと同じだろうから。

1ヶ月かな。1ヶ月はもたないと思う。

ビンゴ。
担当医の本心を聞けても、まったく嬉しくなかった。


たぶん、あの時、わたしは

もしかしたら、助けてあげられないかもしれないから、もう一度聞きます。本当に、本当に、連絡したいと思う人はいませんか?

と、聞くのが正解だったんだと思う。

でも、言えなかった。
だって、それは負けを意味するから

積極的な治療を進める大学病院。

助けてあげられないかもしれないから、あなたが亡くなったら連絡するであろう人を教えて欲しいなんて、当時の私は口が裂けても言えなかった。

結局、石井さんからは何も聞けないまま、救命センターへの入室が決まる。
石井さんは、もうほとんど意識がない状態。
ガーゼなどとうに通り越し、ガウンやシーツまで血まみれの状態だった。

夕方なのにまだまだ外が明るい夏至の頃、石井さんは救命センターへ吸い込まれていく。

それが、石井さんを見た最期の姿だった。


不幸を当てる看護師の勘

たしか、私は連休明けだった。

救命センター入室から20日後。
石井さんが亡くなったという知らせを聞いた。

担当医と私の予想が当たってしまった。
どうせ当たるなら、宝くじほうがずっといい。

でもさ、かなり大変だったんだよ…

そういう担当医は、ぐったりしていた。

看護師といえど、患者の個人情報の規定は厳しい。
たとえ、受け持っていた患者であっても退院したり病棟が変わっしまった場合のカルテ閲覧権はない。

担当医には、石井さんの経過を残すためのカルテ記載の権利が残っていた。プライマリーナースという入院中のメインとなる担当看護師だった私は、特別に担当医からカルテを覗かせてもらったのだ。


そこには、私の勘があたったことをはるかに超えた、予想外の展開が待っていた。


===

ここから先は、カルテによる情報と担当医から聞いた話である。

石井さんが亡くなったあと、かろうじて救命救急医が聞き出していた大家さんへ連絡する。意外に思われるかもしれないが、高齢の単身世帯のキーパーソンは大家となる場合が多い。

石井さんの場合も、救命救急医が

申し訳ないが、助けられない場合もある。そうなった時に連絡する先を教えてほしい。じゃないと、区に連絡し、職員が死後の手続きをすることになる。

と説明してはじめて、大家さんの連絡先を話してくれたそうだ。


案の定、連絡した大家さんは病院まですっとんできた。

おいおい、石井さん…手術して元気になるはずじゃなかったのかよ!なんでだよ、なんでこんな…

ベッドサイドで膝から崩れ落ちるようにむせび泣いていたそうだ。

実は、石井さんと大家さんは契約者と大家の関係を超えた、長年の親友であった。さらに

石井さんには、別れた女房と子どもがいるんだ。こんなこと、俺の口からとても言えない。どうかお願いだから、連絡して会わせてやってくれないか…?

このカルテ記載を読んだ瞬間、私は血の気がひいた。
やはり、私の勘は当たってしまったのだ。

救命救急医から家族へ連絡し、数時間後に家族が到着する。

元の奥さんらしき人と、娘、息子、そして娘の子どもであろう男の子が救命センターに駆け込んできた。

石井が、石井が死んだって本当ですか?どういうことか説明してください!なんで、こうなる前に連絡してくれなかったんです?場合によっては、訴える覚悟もできていますよ、こっちは!

気が動転した家族が、訴えるというワードを出すことは決して珍しいことではない。

しかも、こういう場合は無理もない。
長年会っていなかった元旦那が死んだという連絡が、いきなり病院から来たのだ。

救命センターの看護師が家族と大家さんを説明室へ案内する。
救命救急医、そして担当医からゆっくりと事の次第を説明していく。

・石井さんは胆管がんという病気であったこと
・それを治すためにPPPDという大きな手術をしたこと
・しかし、縫合不全という合併症を発症してしまったこと
・手術承諾書には、その合併症が起こることが記載されており、石井さん本人からも同意を得ていたこと
・一般病棟で管理していたが、限界になったため救命センターへの入室したこと
・救命センターでもできる限りの治療をしたこと
・最期まで石井さんは病気や症状と戦ったこと

徐々に家族が平静を取り戻しつつ、現実と向き合い始める。

そして、カルテ記載を見せながら、私たち医療者がなんども家族や連絡したい人について確認したことを説明した。

私をはじめ、担当医、他の病棟看護師、手術看護師、救命センター入室時の看護師、そして救命救急医本人、記録上でも10回近く、キーパーソンについて確認していたが、石井さんは独り身であると貫き通していた。

ここで、カルテについてちょっと補足させていただくと、カルテは単なる患者のデータベース、情報共有のツールではない。

裁判になった際には公式記録として取り扱われる。だから、医療従事者はでっち上げや虚偽をカルテに記載してはいけない。石井さんのカルテにしてもそう。

仮に裁判沙汰になったとして、カルテ記載がこれだけある状況では家族は裁判に勝てないだろう。

そして、もうひとつ。

家族の情報を無理やりでにも入手できなかったのか、という点だ。

実はこれ、知人に何度か聞かれたことがあるのだが、基本的に医療従事者にそういう権限はない。
警察でも行政でもないからである。

意識を失って倒れた患者の貴重品や身元を調べる時も、警察や救急隊がいる時に実施するし、どうしても看護師同士で行う場合は、必ずダブルチェックで行い記録をカルテに残す。

だから、石井さんのように意識があってしっかりしている人の個人情報を疑うような真似や、荷物を漁るようなことは絶対に出来ないし、患者の話している内容の裏を取るようなことはできない。

患者の話していることを真実だと受け取るしかないのだ。


医師からの説明が終わる頃には、家族も大家さんも涙が止まらなかったそう。
ある程度落ち着いてから、奥さんが話始める。

そうだったんですね…

実は、石井は昔、事業で失敗し多額の借金を抱えたことがあったんです。それもあって、私たちは離婚しました。私と子どもたちの生活を守るために。借金はすべて返しましたが、無一文になった彼は生活保護を受けなければ生活できない状況でした。

私や子どもたちが援助すると何度も申し出たのですが、彼は絶対に首を縦にふらなかった。次第に、連絡先も住所もわからなくなってしまって…

でも、まさかこんなことになるなんて……
せめて、せめて最期に話ができていたら……

大家さんが重ねる。

俺たちもさ、入居の時にもしもの時の連絡先を聞くんだよ。
それこそ、孤独死とかされたらたまんないからね。

その時にあんたがたの連絡先を聞いたんだが、石井さんさ「俺が死ぬようなことがあったら連絡してくれ、それ以外では絶対に連絡するなよ」って真剣な顔で言うんだ。まさか、それが本当になっちまうなんて……

もう、私はカルテの続きが読めないほどだった。

あの時、石井さんがまだ話せる時に、奥さんやお子さんたちをベッドサイドへ呼べていれば、こんなことにはならなかった。

きっと彼ら家族は、石井さんのこのような死を、一生抱えて生きていくことになる。

「助けてあげられないかもしれない」

この一言を言う勇気がなかったせいで、私は取り返しのつかないことをしてしまった。

石井さんの意志を尊重する代わりに
家族の意志を殺したのだ。


正義のとなりにあるもの

カルテをすべて読み終わった私は、呆然としていた。
大きな後悔と悲しみの中にいたことは確かだったが、私の目の前にはケアが必要な別の患者がいる。

あの日は、涙を含む諸々をぐっと飲み込んでまた業務に戻った。


あれ以来、石井さんのことを忘れたことはなかったが、自分の中でこうして言葉にするのに何年もの歳月を要してしまった。

石井さんが、あれほどまでに家族の情報を伝えようとしなかったのは、これ以上家族に迷惑をかけられないという意思のあらわれだったように思う。

けれども、残された家族は石井さんを支えたかった。
むしろ、迷惑をかけてほしかったのだ。


石井さんも、家族も、どちらも正しい。
正義の隣にあるのは、いつも別の正義だ。

どちらかを立てれば、どちらかを否定することになる。
どちらも、同じ正義なのに。

あれ以来、どうすればよかったのかをずっとずっとずっと考えていたのだが、ようやく、答えらしきものが出た気がする。


誰かの意志を尊重するために、必要なこと

ここ数年、終活という言葉を聞くようになった。
終活ノートや終活手帳と呼ばれるプロダクトまで販売されている。

けれども、本当の意味での終活はあれじゃ足りないと、私は思う。
自分の意思を残しておくだけでは、主張するだけではダメなのだ。


では、どうすれば良いのか。

それは、大切な人と会話ではなく対話をすること。
そして、対話の先に自分の意志をおいておくこと
、だ。

会話ではなく対話と書いたのには理由がある。会話のような上っ面のコミニケーションでは、相手とわかり合うには足りないからだ。

相手と会うのではなく対するということは、意見と意見のぶつかり稽古のようなもの。時に言い合いや罵り合いになるだろう。それを超えたところに人と人との本当の理解があるのだと思う。

そして、意志の置き場所だ。

ノートや手帳もツールとしてありだと思うが、それを大切な人と共有し、関係者の総意となっていなければ意味がない。

誰かの意見にみなを合わせるのではなく、関係者がそこそこ納得できる意志の着地点を見つけておくことが重要なのだ。

なぜなら、私の意志も私ひとりでは構成されていない。
私の家族や大切な人たち、みんなの意志があいまって構成されている。

だから、合意ではなく総意なのだ。
誰かに共有し、理解されてはじめて、「私の意志」は尊重される。

大切なことなので、もう一度言っておく。

会話の中ではなく、対話の先に意志がある
意志は理解されてはじめて、尊重されるの。

と、ここまで長々語ってきたが、鳥井さんのブログに実に簡潔に対話について考察されているので、どうか読んでほしい。


人の意志はもろく、うつろいやすいものだから

ここまで、石井さんの事例を使って対話の重要性について述べてきた。

同時に、意志はとても弱く、流されやすいものであることにも皆さんは気付いているはずだ。だって、感情を持つ人と人との間においておくものだから。

したがって

多くの言葉を交わしているから
対話をしているから
名前のついた関係性だから
情報を共有し理解し合っているから

こういう奢りが生まれた瞬間、その人との関係性が、そして、これまで培ってきた対話の積み木が崩れていく。どんなものにも言えるが、作るのは難しく壊れるのは簡単だ。

だからこそ、意志の理解を履き違えないために、違いを理解しようとする絶え間ない努力が必要なのだ。

自分が居なくなってからも意志を尊重してもらうには、伝え続ける努力が必要だし、相手の意思を尊重するためには勇気と覚悟を育てる時間が必要だし、何より相手を理解しようとする継続的な姿勢が求められる。

対話は誰かとわかり合える喜びと同じくらい、辛抱や努力を要するものでもある。
それを、超えていけるかどうかだ。

これは、歳をとってからでは難しい。老眼と難聴、認知力の低下で対話どころか会話さえままならない。そうなってからじゃ遅いのだ。

だから、今、この瞬間から対話が必要なんだ。


おわりに

石井さんは、意志があったのにも関わらず、それを誰とも共有しませんでした。
もちろん、対話も。

きっと、事業の失敗をはじめ、離婚や生活保護費をもらいながら暮らしていくことが重なり、徐々に対話から遠ざかったのだと思います。

対話で人とぶつかるよりも、孤独でいることを選んだのです。

しかし、その結果、人生の最終局面において、一番大切な人たちを傷つけるかたちになってしまいました。
残された家族は、石井さんの死を、一生抱えて生きていくことになります。

果たして、これは石井さんが望んだ最期だったのでしょうか?


きっと、対話が孤独に勝るとしたら、いい意味でも悪い意味でも連鎖していくことだと思います。意志は人の中で、生き続けていくんです。

だから、どうか、自分の意志を、自分の中にとどめないで。
意志は、相手との対話の先に置いてはじめて、意味のあるものになり尊重されます。それが、人生の喜びであり醍醐味なんです、きっと。

伝えることを、恐れないで。
伝わる喜びを、もっと感じて。

言葉はいつだって、私たちの意志を尊重してくれるものだから。

貴重な時間を使い、最後まで記事を読んでくださりどうもありがとうございます。頂いたサポートは書籍の購入や食材など勉強代として使わせていただきます。もっとnoteを楽しんでいきます!!