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できることと自分らしさ、両立させるにはどうしたらいい?

いきなりですが、ある男性とある女性を紹介します。

ある男性

あるところに、50代の男性がいました。
病名は大腸がん。
奥様とお子さん2人の4人暮らし。

中身は、典型的な昭和の猛烈サラリーマン
誰のおかげで飯が食えると思ってんだ!とか言っちゃうような。

高学歴高経歴で、現職でもそれなりのポスト
治療が終わったらすぐに仕事復帰する予定でした。

手術は成功。
ただ、術後の経過は不良。

術前、あれほど指摘されていた喫煙を辞められなかったことが理由なのか呼吸状態がイマイチ。くわえて、運が悪かったのか腫瘍が動脈の近くで、術中に大量出血してしまいます。

体力もADLもガタ落ち
鼻から吸う酸素と点滴棒のような支えがないと歩けないまでに弱ってしまいました。

術後に予定していた化学療法や放射線治療も延期、見通しが立ちません。当然、仕事への復帰も白紙。むしろ、クビになるかどうかというところまできていました。

そんな中、奥様から

今まで我慢してきましたが、もう限界です。
稼げなくなったあなたの介護なんて絶対にイヤ
これにサインをしてください。

と、ベッドサイドに離婚届が届きます。

失意にくれる男性
この頃から、睡眠障害が出てくるようになります。

睡眠薬や抗不安薬を服用しても、なかなかうまくいきません。
情緒不安定な日々が続きます。

話し合うエネルギーの残っていない男性は、奥様の意のままに離婚に応じ、会社からは早期退職というかたちで事実上クビとなりました。

男性は、ベッドの上でこう呟きます。

俺の人生…こんなはずじゃなかったのに…


ある女性

つづいて、大腸がんの女性です。
60代の専業主婦。

夫は仕事ばかりで、家庭のことはすべてこの女性が担ってきたそう。
子どもはいません。

上の男性と同じく、手術のあとに化学療法と放射線療法が予定されていました。

手術はなんとかうまくいき、そのまま化学療法へ。

しかし、抗がん剤が血管の外に漏れてしまい、皮膚障害+神経障害が残ることになってしまいました。どす黒く腫れ上がった二の腕。

利き腕である右手は肩より上に上がりません。

そんな彼女はこう言います。

病気になったのはあれだけど、毎日電話で夫と話せるようになったのがとても嬉しい。
わたしがいないと家庭が回らないことを身をもって学んだみたいで、してやったりという気持ちよ。この前なんて、ゴミ出ししないとゴミって減らないんだな…ですって!

料理や洗濯、シャツのアイロンがけも電話でわたしが指導してるの。
もう形勢逆転ね。退院するのが楽しみだわ~!

抗がん剤のことは残念だったけど、この年齢ですもの、手術できただけ喜ばないといけないわね。それに、この程度の障害なら、趣味のレース編みにまったく支障がないのでそこが救いだわ。入院中は家事をしなくていいじゃない?おかげでたくさん編めるから、お仲間に作品を見せるのが楽しみ。

腕はリハビリで少しずつ良くなるそうだし、あなたがわたしより悲観的になってどうするのよ!


この2人

男女の違いと言ってしまえばそれまでなんですが、本当にそれだけの違いなんでしょうか?


ふたりの違い

ふたりの違い、性差の話ではなくアイデンティティがどちらに寄っているかの話ではないか、と考えています。

アイデンティティとは自我のこと。自我というと難しく聞こえるかもしれませんが、自分を自分たらしめるものや要素のことですね。

わたし、ナースあさみの例でいうと

  • 看護

  • 料理

  • 書くこと

  • 考えること

  • 読書

  • 生ハム

  • いとや

  • ゲンガー

  • ミッフィー

  • ズボラ

あたりでしょうか。

これらがDoingに寄っているか、もしくはBeingに寄っているかの話ではないかと思うのです。

このDoingとBeing、詳しく説明していきましょう。


Doingのはなし

Doingとは、できること。
はるか昔、英語で習った一般動詞で表されるもの、といえばわかりやすいでしょうか。

歩く、食べる、考える、分析する、デザインする……

ポイントは、評価ができるかどうか。
成績のつけ方でいうと、相対評価方式。

特に、他者からの評価が可能かどうかは、民主主義の社会を生きる上で非常に大きな要素だと思います。受験も就職も恋愛も、ある意味では選ばれるための戦いですよね。

上の男性の例でいうと、彼はDoing寄りの人でした。

勉強ができ
仕事ができ
給料も良い

できることを増やすこと
できることを伸ばすこと
それを他者から評価されることが
彼のアイデンティティの大部分を占めていたと思われます。

だから、病気で仕事が奪われ、仕事のできない状態が続くと心身のバランスが崩れてしまう。できることを奪われると、自分には価値がないと思いこんでしまうんです。

アイデンティティクライシスなんて言葉もありますが、病気や障害のせいでアイデンティティが揺らぐ、もしくは喪失する患者さんというのは、そこそこいらっしゃいます。

特に、長年仕事に情熱を注いできたような人は要注意
実際の臨床でも、留意しながら関わっています。


Beingのはなし

続いて、Being
こちらは、Be動詞で表されるものですね。

無理やり日本語にすると、在るとか居るになるでしょうか。

動詞の後ろに、名詞や形容詞が続きます。
ここでお気づきの方もいるかもしれませんが、こちらは評価が難しいもの。
絶対評価方式。

I'm hereを評価せよと言われたら、困りますでしょう?
え…わたし、ここに居るだけなんだけど…え?ってなる。

美しいって、順番がつくのでしょうか?
いい男性って、どういう男性?
推しがどれだけ好きかは、課金額だけで決まりませんよね。

こんな具合


上の女性の例は、Being寄りの人でした。

長年、専業主婦だったために仕事で評価されることはほぼなく
妻という役割をずっと求められた人。

例の女性は、たまたま家事ができるタイプの人でしたが、家事ができるかどうかはここでの問題ではありません。

妻である彼女という存在が、カルチャーセンターの中でもレース編みが好きで得意な彼女という存在が、アイデンティティの大部分を占めていました。

他人の評価なんて関係なく、自分で自分たらしめる要素(ここでは役割)を自覚し納得していたというのが大きいと思います。

だから、病気のせいでできることのクオリティが下がったり、できることそのものが減ってしまっても、彼女のアイデンティティは大きく揺らがないんです。


医療におきかえると

ちょっと話の場面を変えてみましょう。

積極的な治療が難しくなった段階で、ある患者さんから

できることがもうないってこと?
わたしのこと、見捨てるつもりね!!

と言われたことがあるんですが、これは半分正解で半分間違いです。

たしかに、できることがない=医療技術をもって解決できるフェーズでなくなったことはたしかです。

手術をしても
化学療法をしても
放射線治療をしても
治らない。

効果や効能を測る対象から外れてしまったのです。

戦場に集められたとして、負けるとわかっている戦にあなたは参戦するでしょうか。
積極的な治療が難しいとは、そういうことなのです。

ただ、こちらとしては患者さんを見捨てたわけではありません。
医師の担う役割がDoingだとしたら、まだ看護の担うBeingが残っています。

いやいや看護だっていろんな「できること」で戦ってるじゃないか、と思われるかもしれませんが、看護のできることなんてたかが知れてるんですよ。

それよりも、看護には評価の対象とならない、けれども大事な要素があります。

それは、そばに居ること

呼んだらすぐにきてくれること
手を握ってくれること
話を聞いてくれること

正直、どれも医学的なエビデンスがあるものではありませんし、患者さんにとっていい影響を与えているかも、評価することはできません。

けれども、わたしたち看護師がいることで救われている人がいる、ということは紛れもない事実だと思うんです。
じゃなきゃ、こんなに求められる職種になりません。

特に、終末期医療における看護の役割は、医師のそれよりも患者さんにとって大きなものになっているかもしれません。
死に向かう患者さんに寄り添い続けるのですから。

看護は自分をまるごと使う仕事と言われることもありますが、それは「居る」を最大限に活かすからだと考えています。


DoingとBeingのバランスをとるには?

できることと自分らしさ、DoingとBeingを両立させるには、そのバランスをとっていけばいいんですが

そんなこと言われても、すぐにできませんよね。
そこで、いくつかネクストアクションを考えてみました。


分人を作り、育ててみよう

分人をものすごくざっくり言うと、いろんな場面における自分のこと

わたし場合だと

  • 娘としてのわたし

  • 看護師としてのわたし

  • 書き手としてのわたし

  • ナースあさみとしてのわたし

  • テニススクールでのわたし

  • 某コミュニティでのわたし

  • ジムのバレエレッスンでのわたし

  • カラオケアプリ内でのわたし

ざっと考えただけでも、これだけあります。

おなじ「わたし」でも、場面によって人格や役割が微妙に違うと思うんです。もちろん、使う言葉や態度も。意識してるかどうか関係なく、求められている役を演じているような感覚があるのかもしれません。

分人のなにがいいって、個人としての「わたし」だと、ダメになったときの代償が大きいですよね。アイデンティティが「わたし」に集中しすぎているので、リスクが大きい。

でも、分人を作って育てておくと、ひとつがダメになってもほかの分人が残っています。それに、また作り直せる。

「わたし」そのものがダメになるわけじゃないんです。アイデンティティが大きくゆらぎにくい、というのが特性のひとつ。

SNSアカウントを使い分ける、というのも立派な分人だと思います。
わたし、これ結構やってます。ふふ。


ただ居ること、の練習をしてみよう

どこでどうやって…?と思われるかもしれませんが、意外と実践できる場は多いように思います。

カフェや図書館、公園でただ居る。

コーヒーを飲む
本を読む
ベンチに座って空を見上げる。

どれも、他者から評価されることが自身の承認欲求に直結しにくいはずです。

最強の例は、赤ちゃん。
ご飯もトイレもできない
ただ泣くことしかできない

でも、存在してるだけで良い。

例外はあると思いますが、基本的に赤ちゃんって自分から望んで産まれてきてるわけじゃありません。産まれてきてほしいと望む人がいて、産まれてくる。

だから、存在しているだけでアイデンティティが成り立つんです。


ただ、大人になればなるほど、居るって難しいんですよね。
それをわかりやすく、物語ベースで解説してくれてるのがこちら。

Doingに逃げたくなったときに読み返しています。


自己紹介にDoingを使わないコミュニティに所属してみよう

1番スタンダードなコミュニティは家族

と言われてますが、それだけだとつらくなるときがありませんか。
それに、その家族が機能不全だったり、家の中の居心地が悪かったりすると救いようがないですよね。

そこで、趣味の出番です。
いまだと、推し活も入るでしょう。

お金や時間や手間を、好きなものにどんどん使いましょう。
そこで出会った人たちと、競争ではなく共感でゆるくつながりましょう。

日々の生活で嫌なことがあっても、別にその人たちにわざわざ話さなくていいって、ある意味で楽じゃありませんか?

相手や場との関係性を構成する要素が絞られてるというのは、ときに救いになると思うんですよね。

Doingではなく、Beingで人とつながってみましょう。


おわりに

そこそこ大人をやっていると、いろんなライフイベントに遭遇しますよね。

いいものもあれば
そうでないものも。

特に、事故や天災・感染症あたりは自分たちの力だけではどうしようもありません。

そんなとき、「わたし」がまるごとダメージを受けると回復までかなりの時間とエネルギーを要します。

だったら、「わたし」を分散させておきませんか?という提案です。
できることと自分らしさ、いろんな関係性や場に散りばめておきましょう。


DoingとBeingのバランスをとることで、すべての人がその人なりの健やかさにたどり着けますように。

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