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「努力向」という言葉を辞書に残したい

どうも、テラコッタです。

「努力はスカラー量ではなく、ベクトルだよな。。」
こんな事をふと思う事があります。どういう事か説明しましょう。

「こんなに努力しているのになんで報われないのだろう。」こんな事を思った経験はありませんか?
例えば、勉強して受けたテストの点数が、勉強していないであろう人の点数を下回った事や、習い事や部活において、人より上達しない事に苛立った事などは誰しもが経験してきた事ではないかと思います。

私も例にもれず、そういった経験をしてきた中の一人です。勉強は、割と効率的に学習できる方ではあったが、明らかに勉強量はこちらが勝る相手に点数でボロカスに負ける事や、12年間習い続けたピアノも1年ちょっと習っただけの同級生の方が上手く弾けていたなんて事もざらにありました。

そしてこういった時、人はその現実を目の当たりにする辛さに耐えかねて「あいつは天才だな」とか「才能の違いだ」といった言葉で納得しようとするのです。

しかし、私はどうしても「天才」や「才能」といった言葉でこういった事態を片付ける気にはなれません。というのも、そもそも人が考える「努力」の定義や「努力は報われる」という考え方に疑問があるからです。

例えば数学の点数を上げる為に誰かが「数学を勉強した」としましょう。この「勉強をした」という言葉に対し、私たちは大抵の場合「時間をかけて数学に取り組んだ」と解釈します。そして、それが正しい努力の仕方だと学んできたように思います。

でも、考えてみて欲しいのです。「数学の勉強をした」と言っている人が時間をかけて足し算と割り算の計算だけを繰り返していたとして、高校数学の点数の向上が見込めるでしょうか。そしてそれを正しい努力と言えるでしょうか。これはまぁ、極端な例ですが、「勉強をした」という言葉にはこういった事は往々にして含まれています。

つまり、「努力をする」という言葉を「努力量を増やす」と解釈するだけでは、努力違いが起こりえます。この事を踏まえて、私は努力の概念を「量」と「向き」の二つの性質で定義するべきだと考えています。

こんな事を思う、今日この頃です。

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