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水のない田んぼ

これは、3月の終わり、田んぼの整地をしているところです。このように、お米を作っていないときの田んぼというのは水がなく、畑のような乾いた状態になっています。今の子どもはこんなところでは遊ばないと思いますが、昔はいい遊び場になっていました。なんの不思議な気持ちもなく、この景色を受け入れていた私ですが、今年この田んぼの整地をした時、ちょっと気づいたことがあります。

畔と田んぼの境目をハッキリさせるために、息子と一緒にシャベルで掘り返しました。時期は3月。数日かけて行いました。地道な作業です。

当然、シャベルや長靴がドロドロになります。田んぼで洗って帰りたいけれど、どこにも水がないので仕方なしにドロドロのまま車に積んで、家の蛇口で洗うのです。手を洗う場所すらありません。もちろん、これが5月や6月なら話は別です。でも3月の田んぼはどこにも水がないのです。
どうして?田んぼだったら横に水路があるでしょ?と、思うかも知れません。確かに水路はあります。でもこの時期、水路はカラカラで、一滴の水もないのです。

田んぼの水路というのは常に水があるわけではなく、その多くは「米を作るのに必要な時期だけ水を流している」からなんです。

川から引き込んだ水は水路へ、土地の高低に従って流れながら各田んぼに入って行く。私はそんなイメージを持っていました。田んぼに水がないのは知っていたけど、水路には水があると思っていました。水の豊富な山間の田んぼは、冬でも水路に波なみと水が流れているところもあります。

ところが、それだと、高いところにの田んぼは常に水があるけれど、土地の低い田んぼには水が行きにくい。雨の少ない年は特にそう。ということで争いが絶えません。そこで、昭和に耕地整理という公共事業が行われ、それに伴い、川から水をポンプで汲み上げ、各田んぼに備え付けられた蛇口を捻れば水が出る。という画期的な手段が生み出されました。

とは言え、ポンプは電動。電気代は集落の稲作農家で折半。そうなると、米を作らない秋や冬に稼働させていると電気代が勿体無い、ということで、米を作る時期にだけ水を流す。ということが行われているのです。

国土の殆どが山、という日本は降水を山が保水し、川となって流れ、それが稲作の元となるはずです。しかし、現代ではその水さえも管理され、私の地方では年間たった4ヶ月しか水がありません。みんなで色々考えて今の仕組みになったのだとは思います。便利で効率的なのかも知れません。でも、何かちょっと違うような気がします。午前の野良仕事を終え、弁当を食べるために手を洗おうと思ってもどこにも水がない、というのは何か言いようのない寂しさを感じさせたのでした。

※4月半ば、水門を開けるために、水路の掃除をし、水路に詰まった枯れ草を集めて燃やす「出合い」の作業。奥に見えるのが水門で、その向こうが川。その川も護岸で固められ、降りて行くことができなくなっています。

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