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一周回って今、新聞だと思う

毎年恒例、私の部屋にはツバメが巣を作って子育てをします。
そんな時欠かせないのが新聞紙。

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これでフンを受け止めますね。新聞は同じ敷地内に住んでいる父からもらってて、私自身は新聞を取っていません。けど、このようにツバメの時期だったり、ほかにも野菜を包んだりと、新聞紙が欲しくなる時もらいに行きます。くれる人が近くにいればいいけれど、いないと困ります。

新聞の紙でないとダメ、というのがあって、これはなかなか新聞のすごいところでもあります。吸水性、軽さ、手で切れる、丸めればクッションになる、捨てやすい。いいとこだらけです。しかし、新聞とは情報を発信している紙であって、ツバメのフンを受けたり、野菜を包むのは本来の仕事ではありません。

テレビがデジタルに変わった時、私はテレビをやめました。どうもあのデジタルの画像が好きではなかったし、一斉に買い替えさせられるのが嫌だったし、NHKの受信料払うほどテレビ見る時間がなかったからです。そのころは「情報はネットがあれば上等」と思ってて、もちろん新聞も取っていませんでした。テレビ、新聞は古いメディア。ネットの中にこそ、新しくて「偏っていない」世界基準の情報があふれてて、それらを取捨選択できる私は情報の先端を行っている。

そんな風に思っていたのです。それから10年、今ネットの世界がどうかと言うと、なんかあれ?って感じなのです。相変わらず情報はあふれてる、けどその情報はいらないものがほとんど。以前は検索すればそれなりのサイトやその方面に明るい人の、しっかりしたデータのブログを見ることができました。でも、そのようなブログが仮にあったとしてもかなり下層に埋もれていますし、検索では出てこなくなりました。検索に出てくるのはお金をかけてSEO対策されたものばかりだし、あちこちの記事を切り貼りしたまとめサイトです。欲しい情報を探すのにとても時間がかかるようになってしまいました。

先日、ツバメのために新聞を広げていたら、いろんな見出しが目に入ってきました。

・渋沢栄一の理想 息づく住宅地 -放射状の道路 自然生かす街づくり-
・アートで感じる 社会変化の兆し-ワタリウム美術館30周年 運営する和多利姉弟に聞く-
・一隅を照らす精神 今こそ -比叡山延暦寺 根本中堂-

朝日新聞夕刊です。これらの記事はネットで見ることもできるでしょう。例えばこれらの見出しがネット上にあったとして、「あ、ちょっとこれ読みたいな」と思うでしょうか。多分ならないんです。新聞だから「あ!」ってなる。新聞紙だから。

それは、一枚の大きな紙の上に見出し、小見出し、絵や写真があって、字の大きさや分量、写真の配置、そんなことが心のフックにひっかかります。ネットだと、どうしても同じ画面の上に出てきますから、どの記事も平たんになってしまう。それに、画面の上や端っこにはたくさんのバナー広告がひしめいています。そのような広告は、いかにして「今、画面を見ている人の集中力を切ってこちらを向かせるか」に注力して設計されていますから、抗える人のほうが少ないでしょう。ついついその広告をクリックしないまでも注意を向けてしまう。そこでもう興味の集中は切れてしまいます。

私などは「その手には乗るものか」と、知らないうちに資本主義の権化と戦っていたと思います。その割に結局クリックしたりで、まあどうしようもありません。長い間、ネットのそんなことに慣れきっていた私。きっと疲れ果てていたのでしょう。ツバメ養生のため、新聞を手にしたその日、ふんわりとした手触りにどこかホッとした自分に驚きました。(え?新聞ってもう過去の目メディアじゃなかったっけ…)いいえ、柔らかい紙、目に優しい色、紙面が語りかけてきます。

私は新聞の束の中から興味のある数枚を取り出して、就寝前に読みました。当たり前ですがネットで見るの違って、ピコピコ動く広告もないし、工夫された寺の展開図や町の図解が大きくとてもよくわかります。しっかり記事を読んだ割に時計を見たらまだこんな時間。集中すると時間って凝縮されるものです。デジタルの中のカスの海から顔を出したところに、新聞がありました。新聞なんてもう古い?いいえ、むしろ今こそ「新聞紙」を手にするときなのかも知れません。

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