黄斑円孔闘病記 -5-
自覚症状があったのか
この症状に至るまでのあいだ、自覚症状があったのだろうか。
やたらと涙が出る、と言うことはあった。一方、日記のなかから次のような一文を見つけ出した。2022年2月2日となっている。症状の出るちょうど1年くらい前だ。
この時、東北へ長期の当時旅行へ出かけているときで、まさに左目の奥の部分に異変を感じている。兆候はあったというわけだ。
先生の手術の説明によると、2000回に1回くらいの確率で手術中に傷がついてそこから菌が入り失明になる、網膜などを誤って傷つけて失明するというケースみあるとのことであった。それらは私の意識の及ばない範囲のことだ。運によるものが大きい。
目の手術というのは目に麻酔をするわけなので、本人に意識がある。考えても見てくださいよ。手術は白目に4つも穴を開けて、そこに手術器具を通すんです。「白目に穴」というだけでもうアレじゃないですか。おっかないじゃないですか。それって見えるん?どうなん?目玉の中身大丈夫なん?とか思うわけです。それで先生に
「先生、それって全身麻酔でやれたりしないんですか?」
と聞いてみたところ、ちゃんと自分の意志で目玉をコントロールしたり、もう一方の目、右目を開けていたりしないといけないらしい。(へえ、そんなもんか)と思うだけであった。手術の時間もどれくらいかかるか多分聞いたのだが全然覚えていない。そんなことよりも(白目に穴…)と考えていたのだろう。
手術の概要をプリントでもらったけれどやっぱりピンとこなかった。目玉がどのようなものか分かっておらず、そもそも白目は中身も白いのか、それとも白いのは表面だけで、中身は透明なのかすら知らない。穴を開けたら中身がブシュッ!と飛び出してしまわないのか。黒目の部分は一体目玉のどの辺まで黒いのか。絵で理解はしていても、自分の目を見て実感することはあんまりないまま私は入院準備を進めていた。
下向き姿勢厳守でどうやって時間を潰す?
これが旅なら、連絡が取れるようにしておくわけだけれど、今回は入院、手術だから仕事の連絡はほぼ入らないような手筈になっていた。わーい!自由な時間だ~!と喜びたいところだけれど、今回の入院では下向き姿勢厳守である。この特殊な状況でいったいどうやって時間を潰そうか。
下を向いているわけだから紙の本も読めるのかも知れないが、目をいたわろうと思ったらあまり使わないのが吉だ。そこで私が考えたのはオーディオブックであった。
Audibleをタブレットに入れて、いくつか本をダウンロードした。時間がたっぷりあるなら、今更だけど「源氏物語」とかどうだろう、と思い、瀬戸内寂聴版を入れた。他にも山口周さんを始めとした哲学の本数冊、ちょっとだけ興味があったので、落合博満の本。また、内容が分からなくても聞いてるだけでいいと思ったので日本語以外のアラビア語やフランス語、英語の本なんかも入れてみた。
下向き姿勢でどうやって飲み物を飲む?
知っている人はいるかどうかだけれど、私が幼少のころはこのようなものが家にあった。
吸い飲みと言われるものである。これは病気の人にお茶や水を飲ませるもので、コップを使えないときに使う。先生の指導では、食事なんかの時は正面を向いていてもいい、とのことだった。けれど、せっかくなら徹したいではないか。口に物を運ぶのは多分下向きでもできそうだった。問題は飲み物を飲むときである。コップで飲もうとすると数秒は上を向く必要がある。そこで吸い飲みを思いついたのだけど、この吸い飲みだって下を向いたままでは使えない。そこで思いついたのが赤ん坊用のコレだ。
これのどこがいいか。色々いいところはあるけれど、まず第一にストローである。ストローなら下を向いたままでも飲むことができる。ペットボトルに差せるストローみたいなのもあるんだが、ペットボトルって案外背が高い。それに、こかしてしまう(倒してしまう)心配もある。そうなったら惨事だ。だけど、これは倒しても大丈夫。横にしても、ベッドの上に転がしてもオッケーなんである。赤ちゃん仕様だから。そしてこのストローは収納できる。上のキャップをクルっと回すときれいに中に入るからホコリなんかもかからず、衛生的にもよい。分解して洗えるからこれまた清潔だ。
ドラッグストアで買ってきたこれは、今回の入院でもっとも役に立った。
ところで、私が入院したのはコロナのころで、付き添いなどは不可能状態だった。今はどうなのだろう。妹は手術が終わるまで待っていて世話を焼いてくれるつもりでいたようだけれど、病室にすら入れないので、あんまり待っている意味もなく、結局帰ってもらうことになった。たったひとりで真っ白な病棟に入ると、病室の入口が開け放たれていくつも並んでいる。ナースステーションでは看護師さんが緊迫した面持ちで行き来をする未知の世界だった。入院は怖いけれど、なんだかワクワクする。入院、手術という新しい体験、それはなんだかちょっとだけ旅に似ているなぁ、などと呑気なことを思う私であった。