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そんなこと、言ってないんですけど

【小説 大人向け 失恋のお話】

「もう会いたくないです、家にも来ないでください」

 そう言ってドアを閉めた、ばたん。ドアの前に立ってる気配がするけど、覗き穴は覗かない。だってそこに立ったまま、あの寂しそうな上目遣いでこっちを見たら、ドアを開けちゃいそうな気がするから。

 ドアに鍵をかけて、部屋の奥の方へと逃げて、ソファに倒れ込み、クッションに顔を埋め、じっと息をひそめる。ドアの向こうの廊下を歩いて去っていく音がする。あれ、なんだ、意外とすぐに。いやいや何考えてんの。私は頭を振ってねじり込むようにクッションに沈ませる。このまま柔らかい綿の中に飲み込まれて消えちゃえばいいのに。

 ペイジョー、なんて変な名前の劇団でその人に会って、あーやばい一目でこれ好きになっちゃう奴だは、と開いた口を塞いだのが三ヶ月前。ワークショップの間、先生役をつとめる劇団の主宰者が話す、優しいけれどもとりとめのない抽象的な話を上の空で聴きながら、私はずっとあの人の骨格とか筋肉のつき方とかちょっと考えるときに口元に手を置く仕草とかを見ていた。きも。

 ショートカットで少し青く染めた髪。やせてて、手足が長くて、動物に例えたらヘビとかトカゲとかに似ていて、少しハスキーで大きな声で、ちっちゃなピアスを開けてる二才年上の、東京に実家のある役者。ダメでしょ、絶対好きになっちゃいけないやつ。

「寒いところから来ました、唯一の取り柄は色白です」

 自己紹介なんてものがこの世にあるから、存在しなくてもいいモヤモヤした自己を、何らかの形に規定する必要が出てくる。だってさあ、人類なんて異星人から見ればどれもこれも同じはずだよね、手足が2本ずつ、上の方に感覚器官があって、下の方に排泄口があって。

 そんな頭の中身は微塵も見せずに、私はいつもの曖昧で雰囲気のある自己紹介をする。「寒いところってどこだよ」「あ、青森です」「へえ訛りないねえ」「そっただことねっす」「(笑)」

 私は色白で、少しふくよかで、優しい笑顔が作れて、ちょっとイジられても笑える返しができるから、劇団みたいなところではとても安心される。ちょっと冗談は言うけれど、あくまでも不思議な雰囲気は残して、お酒も飲めないし夜は眠くなっちゃうキャラで、誘われても絶対に二人きりにはならないし、彼女のいる男に不用意に近付いたりもしない。怒ったり、泣いたりもしない。

 安全、安心、無害、無益。

 あーあ、あの人は、そういう私のような人間を、嫌うのだろうな。だいたい役者をやろうって言うのに、肉と脂肪と皮の上に更にねこの皮をかぶっているのがよくわからない。私だって自分を解放したい。誰はばかることなく欲望をぶちまけたい。髪だって好きなときに好きな長さに切りたいし、色だって好きな色にしたい。憧れと好きは似ているけれど、同じ人間にはなれない。こんなに似ているのに、手足が二つずつ、上の方に感覚器官があって、下の方に排泄口がある。

 ぱちん、と音がした。

 休憩時間に、喫煙所の方から少し苛立ったような声がするな、と思った。あの人が出てきて、次にさっき講師をしていたお兄さんが追いかけてきて、振り向く勢いで平手をぱちん、お兄さんの顔にぶつけた。

 わーなにかっこいい、ドラマかよ、まるで生の映画を見ているようだよ。か。

 私はそのとき劇団ペイジョーのこともよく知らなかったし、主宰とあの人の関係も知らなかったけど、その時の会話はよくおぼえてる。記憶力だけはいいんです。

「ってえ、なにそれ、暴力?」

「振るわれる覚悟があるんですよね」

「いや、皆さん見てました?一方的な暴力ですよねえ」

「あなたが振るったものは、暴力ではないんですか?」

「俺は、誤解ないように聞いただけでしょ、ほら見た目がアレだから、レズだったら口説いたら失礼にあたるかなって」

 もう一発の平手が飛ぶ前に、劇団員らしい男の人が、主催の人に抱きつくように抑えて、喫煙所へと連れ込んだ。劇団員の女の人が後をついて行く。受付をやってくれていた制作の人が、あの人に頭を下げている。私はそれを、わーすげー、という間抜け面で見ていた。

 ワークショップは途中で終わった。参加した全員がフワフワした高揚した雰囲気のまま、ただその内容があまりに共有しづらいためか、最寄りの駅まで一緒に歩いて帰りながら、誰もなにもそのことについて触れなかった。今回のワークショップで合格すれば、ペイジョーの公演に出られるとかそういう触れ込みだったけど、なんだかそういう感じでも、なくなっていた。

 駅前に着くと、あの人は深々と頭を下げた。

「本当に今日はすみませんでした、台無しにしてしまって」

 誰もそれを殊更に責めず、いやあ、とか、まあ、とか、言葉を濁しながら、謝罪と受容のセレモニーは終わった。何人かが駅前の居酒屋で飲むと言い、何人かが急いで改札の方へ向かい、自転車で来た人も歩いてきた人も去っていき、言い訳のしようもなく、私はあの人と二人で駅前に残った。

「あの家、どこですか、あいや別にその、路線? 乗り換えとか?」

 あたふたと話す私の方を見て、あの人が少し微笑む。

 悪い顔だよ、分かってんだろ、この女、あんたのこと好きですぜ。

「ひっどいですよね、あんなの、初対面で聞くことじゃないし」

「ああ、いや」

 あの人が少し目をそらし、口元に手を伸ばす。少し曲げた指、伸ばした人差し指が薄い唇に触れる。

「彼とは、初対面じゃないんです。ペイジョーの公演には出たこともあって、二年ぶりの、二度目」

「へぇ」

 知らない情報来ました。もっと知りたいじゃんよ、さあどうぞ。

「久しぶりに会って、私も成長したし、何か話せるかなって思ったんだけど」

 寂しそうな顔で線路の方を見る横顔がきれいで額に飾りたい。夜の青、冷たい駅の蛍光灯が横顔のエッジを銀色に照らす。尖った鼻先、長いまつげ、ほんの一秒の静寂を、向かいの居酒屋から漏れてくる雑音が飲み込んで消してしまう。耳に光る小さなピアス。あの人はまた少しだけ微笑んで

「本当に、今日はすみませんでした」

「いえ、全然」

「じゃあ、また、どこかで」

 と言い残し、スッキリしたような顔で私の横を通り過ぎて、改札を通り抜けてホームへ滑るように消えて行った。いや嘘でしょ。すれ違うときに、汗と香水の匂いがした。いやいやいや、嘘でしょっての。私は慌ててバッグからポーチを出して、一回落として拾って転びそうになって、自動改札に手をかけて立ち直り、スイカの入ったパスケースを取り出して当てて、残高不足でなかったことを信じてもいない神様に感謝してうっぜえなこのくだり必要? あの人の後を追いかけた。

 また? どこかで? 会えるわけがないし、会ったところでなんなの。どっかの劇場の客席ですれ違うわけ?「あ」「あ、どうも」って空気みたいな味のしない会話をするわけ? 面白くて最高に笑えて泣けた舞台を見たあとでまたすれ違って「あ」「あ、どうも」ってメイクもすっかり落ちて頬も上気して、お風呂上がりみたいになった顔を見られて、帰るんでしょ、どこか知らないところに、知らない人たちと笑い合うために。

 ふざけんな。

 改札からホームまで走る私の背後には確実にエンディング用の曲が流れていた。ドラマなら3話目くらい、話が動き出した感じのところ。うわ泣ける。今まで自分から動き出せなかったグズな主人公が初めて本当の気持ちを打ち明けるわけですよ。結末なんか知るか。私はホームに立っているあの人のそばに行って、大きくないけどよく通る声で、息を整えながら言った。

「失礼を承知で聞きます、今、付き合ってる人はいますか?!」

「え、あ、はい、えっ?」

 ガーン戦う前から負けてんじゃん。今のはい、返事? それともいますってこと? 否、そういうことじゃない。なにを予防線を張ろうとしてるんだ私は。付き合ってる人がいるかいないかじゃない、今お前が私を好きかどうかが問題だって言ってんだ。だから伝えろ、二度とないこの出会いを逃すな。

「好きです、私は、あなたのことが好き」

「あ、ありがとう、ございます」

 涙が溢れてきた。憧れと好きは似ている。私はあなたみたいに強い女性になりたかった。辛いことをニコニコ流せるのは強いんじゃなくて丈夫なだけ。変なのが来たら「だせえ」って言い返せる女になりたかった。今日はそれが目の前で起こってびっくりしたんです。そういったようなことを、つっかえながら、うつむき加減で、チラチラあの人の目を見ながら言った。あの人はうんうんと頷きながら、一緒に泣いてくれた。いい人じゃんよ。ますます好きになるわ。

 それでまあ、結論を言うと、それから二週間くらいして、私はあの人と会って。夕食を食べたり、美術館に行ったりした。三度目に会ったときに、自分の言ってる好きは、こういう好きであって、ああいう好きではないので、もし嫌なら今まで通りとはいかないかもしれないけど、またもと通りになれるので、でももし嫌ではないのなら、というような内容のことを言うと、あの人は照れながら「こういうのは初めてだけど」と言って、それであとはご想像にお任せします。

 二ヶ月は幸せに過ごせた。わりといい感じだと思った。私はあの人が与えてくれる知識や、あの人が経験した出来事の話を聞くだけでたまらない気持ちになった。これからずっと、あの人といられる。これからは知識や経験を共有できるのだ。そりゃあまあ見た目が好きから始まった恋愛ではあるけれど(そして、あの人が私の見た目や中身を好きでいてくれているのかどうかも、よくわからないけれど)、何とかやっていけると、思ってた。

 渋谷に行った時、バイトをしてるはずのあの人が、ペイジョーの主宰者と歩いているのを見ても、平静でいられた。あ、へえ、ああいう笑顔で、ねえ、ふぅん。ハァ?

 チラシを見るまでは、爆発せずに済んだ。

劇団ペイジョー第八回公演 なんちゃらのほにゃらら(タイトルなんか忘れた)出演 劇団の主催 劇団員 劇団員 客演、あの人。

 あの人のバッグからぺろりと落ちたチラシ。下品なデザイン、ダサいフォント、あらすじだかポエムだかわからん文字列。そこに、あの人の名前。

「出るんですか、ペイジョー」

「うん」

「なんで?」

 せいいっぱいバカの顔をして、何となく気づいていたけど、全く気づいていないので説明してくださいねって顔をして、でもわりともう判っちゃってるから目頭が熱くて鼻の奥がツーンとなって。ああこの人、クズだったんだ、って、倫理的なアレとか、あんまりない人だったんだ、って気づいちゃって、でも信じたくなくて。それが意外と事細かに主宰者との出会いから話してくれるものだから、この人バカなのかな、って思って。

 それで、部屋から押し出して、ソファにうもれて、泣きながら眠って、トイレに起きて便座に座ってる。いま、排泄口からは水分とともに老廃物が流れ出す。あの人の感覚器官が触れた場所、私の感覚器官が触れたあの人の排泄口。以下略。時間と空間も略。

 客席から見るあの人は本当に美しくて、泣けた。その日は霧雨で、傘をさしても横から細かい雨がしっとりと服の上から体を濡らした。湿気の不快感と、効きすぎのエアコンの寒さ。コンディションは最悪だし、幕が開いてもスマホの電源落としてない客はいるし、本当に当日券で来て良かった、予約で名前なんて知られた日には地獄だ。

 脚本は、筋も雑でセリフもダサくて、安心した。途中から、私とあの人のことを取材したんだな〜って内容が盛り込まれていて、掘り込みも浅くて薄っぺらで、逆に笑えた。舞台の中のあの人は傍観者の役で、あの人役の人と、私を煮出して薄めてバケツの水に垂らしたみたいな役の人が、愁嘆場を繰り広げるのを見て、それっぽいセリフを言う。うまいなあ、よくそんなダサいセリフをカッコよく言えるなあ。私が感心していると、舞台上の私の役が、言った。

「空っぽで何者にもなれなかった私に、きっかけをくれたのはあなたです」

 そんなこと、言ってないんですけど。

 思っても言わないし、そもそも思ってもいないし、なんなのそれ、私ってそういうこと言いそうな人に見えますか? いやいや落ち着け、席を立つんじゃない、お前じゃない、私じゃない、全然関係ない他人のお話です。聞きかじった他人の人生を、わかったような顔で再現されたって、何にも響きませんから。私が見に来たのはあの人の横顔で、それはもう充分に見たからもう結構。そのまま何も解決せずに、物語は客に結論を丸投げして終わった。つまらなくて良かった、これで面白かったら私が報われない。

 カーテンコールが終わって客電がつくと、私は電気回路のCG模式図に出てくる電流みたいな勢いで席を立って出口へ向かった。誰の顔も見たくないし、誰にも顔を見られたくない。くそ、受付に主宰者がいる、私のことなんか忘れておいてくれ。

「あ、来てくれたんだ、ありがとうね」

 オゲエエエエエ、お前は何様なんだ、そして社交辞令で微笑む私は何者だ。

「いえ、あ、どうも」

 Tシャツに着替えたあの人が楽屋から出てくる。出てくんな、肩冷えるぞ。

「あ、ども」

 私は会釈をすると、劇場を後にした。させてくれ、もう少しでドアの外に出る。

「どうしたの、感想聞かせてよ」

 あの人の声が聞こえる。振り向けばきっと、あの人と主宰者が並んで立っている。感覚器官をこっちに向けて、排泄口はうまいこと隠して。おぞましい異星の生き物が二匹、そこにいる。二人にとって私は、親しみやすい田舎の子で、ちょっと変わった性指向の持ち主で、ふわふわした可愛い服を着る、与し易い簡単な

「うるせえな、つまんなかったよ!ダサくて、全然面白くなかった!」

 振り向くと、主宰者の古い知り合いだろうか、背の小さな年嵩の男が、主宰者に蹴りを入れながら笑っている。バーバリーのスーツにロレックス、下品だけど金持ちだ、感覚器官と排泄口が一緒になったみたいな顔から、罵詈讒謗が溢れ出す。主宰者が、体を折り曲げて困ったように笑ってる横で、あの人がどういう顔をしているのかを見たくなくて、私はすぐに会釈をして、その場を去った。

 劇場の外に出ると、霧雨はもうやんでいて、灰色の雲がどこまでも広がっていた。私は、さっきの荒々しい声を思い出して、真似してみた。うるせえな、つまんなかったよ、ダサくて、全然面白くなかった。私、もっとああいう汚いおっさんみたいになろう。それでもっと稼いで有名になって、私の大好きなあの人みたいな綺麗な人を、いっぱいはべらそう。

おわりです。

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