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演劇は死なない

【小説】

 どこかで見たような話の展開、どこかで聞いたようなセリフのつながり、誰かがどこかでやったことを、組み合わせて並べてるだけのまがいもの。そんな評が雑誌に載ったのは、もう二十年前のことだ。

 私は三十年も演劇に関わってきた。はじめは大学で演劇サークルの仲間たちと立ち上げた劇団で、役者をやった。三回目の公演で演出家をやっていたZ先輩が女優Nと一緒に製作費を抱えたまま飛んで、その時たまたま出番の少ない役だった私が演出家をやった。それが意外にも好評で、仲間内でのウケもよく、調子に乗って次は作演出だ、と気合を入れた公演の初日に主演のSが熱を出して倒れた。稽古場で代役をよくやっていた後輩のYが「セリフ入ってます」と立候補をしてくれて、初日の幕は開いた。

 これがH演劇祭の大賞に選ばれて、浮かれた私の卒業後の進路は「演劇」になってしまった。卒業後の進路が「演劇」というのは、たとえて言うなら「学校を卒業したら北の方に行きます」というような話に近い。両親にはそれはもう反対されたし、父など話も聞かずに私を怒鳴りつけた。

「演劇なんてのは浮かれたバカが趣味でやるもんだ」

 反対されればされるほど、私は悲劇のヒロインのような気持ちになり、劇団の仲間にだけ行き先を告げて、東京へと上京した。先に上京していた先輩Dのアパートに転がり込み、炊事洗濯をこなしながらステージ設営や照明仕込み、音響会社のアルバイトなどをかけもちして、稼いだ金は全て東京の小劇場をピンからキリまで見るのに使った。やがてD先輩が夢破れて故郷に帰ることになり、そのまま部屋を引き継いだ。

 その日、新撰組を題材にした舞台で、舞台の上で上半身をはだけ、乳房をもまれているN先輩を発見して、私はそこから先の話の筋を忘れてしまった。上演後にN先輩に挨拶をして、打ち上げに紛れ込んだ。かけおちしたはずのZ先輩は影も形もなく、最後に見たのはパチンコ屋に入る背中だったとN先輩は言った。

 それから三年後、私は立ち上げた劇団にN先輩を客演として呼ぼうとした。返ってきた返事は「子育て忙しいから無理ごめん」だった。相手は三年前に出ていた劇団の座長だった。この時の私はちょっと狂っていたし、今思えばそこまで言うほどのことでもないとは思ったのだが、まあ私生活のいろいろも重なっていたことを言い訳にさせて貰えば、たいへん失礼な罵詈雑言を投げつけてN先輩を傷つけてしまったと思う。

 演劇をやることが生きる目的であり、演劇以外のことに対しては「処理」という感覚が強かった。睡眠欲を処理するために酒を飲む(これはやがて睡眠薬に変わった)。食欲を処理するためにチェーン店で外食をする(金はかかるが考える必要がゼロになる)。性欲を処理するために若い男と寝る(年上の男はセックス の後に説教をするから避けていた)。

 もうおわかりだろう。私の頭の中に「観客」というものは存在していなかった。それは私が演劇を続けるための養分であり、工夫をすれば無限に湧いて出る不定形の物体だった。なぜなら観客は私が心を込めて心血を注いで作ろうが、スケジュールに追われて必死にでっちあげて作ろうが、そんな思いとは何の関係もない役者の姿に感動し、涙を流し、金を払うからだ。

 東京に来てからの十年間で、私は疲弊し、削れてしまい、元から薄かった自我をすっかり失ってしまった。ちょうど時期を同じくして劇団ブームが去り、やって来たのはプロデュース公演ブームだった。私は若い客を持っている役者を集め、誰もが知っている題材を組みあわせ、どこかで見た演出をそのまま使って、公演を続けた。

 私が手を抜けば、役者は必死で形を作る。どうせ劇場に行けばできることは限られている。私の役目は「違う」と怒鳴りつけ、ある程度まで役者が作ったら「よく見つけたねえ」と褒めることだった。同時に三本の舞台が並行して作られることもあった。稽古場では役者は悲鳴を上げ、裏では愚痴を言った。それでも満席の客席からの拍手と絶賛の声を聞けば、掌を返して私を褒め称える。役者は一人では公演を打てない、私のように旗を振る人間が必要なのだ。

 そんなとき、演劇の雑誌に私の作品を批判する評が載った。

「どこかで見たような話の展開、どこかで聞いたようなセリフのつながり、誰かがどこかでやったことを、組み合わせて並べてるだけのまがいもの。こんなものばかりが世に蔓延るようになれば、いつか演劇はただの時間潰しに成り下がり、そしてテレビに負けて消え去るだろう」

 これが私にとって誇るべき人生の分岐点だったのか、それとも悪魔の仕掛けた罠だったのか、それは今でもわからない。とにかく私はこの評を読んで、怒りに燃えて新作を立ち上げ、本気で取り組み、それは観客からも批評家からも酷評された。私は大赤字を抱えてしばらくの間、表舞台から姿を消した。

 養成所の講師や、製作の手伝いなどを細々とやりながら、すっかり見る気もなくしていた小劇場のチラシをもらったのは、近所の居酒屋で一杯やっていたときだった。その店の店員が出演する舞台のチラシに、見覚えのある顔が載っていた。

 あの三回目の公演で代役をやってくれたYが、主演の位置にいた。

「Yさん、めっちゃいい人なんですよ、こんど伝えておきますね」

 居酒屋の店員に、あいまいに微笑みかけながら、私は動揺していた。この十年間、私が空っぽな舞台を粗製濫造していたのは、Yの不在が原因ではないかと思い至ってしまったからだ。

 久しぶりに見る小劇場の舞台は小さく、席数も少なく、製作は受付が一人、音も照明も少なく、ただ目の前に人が出てきて演じて去っていく。それだけだった。それでも私は感動し、手を叩き、客電がついてもまだ、手を叩いていた。

 終演後の面会時間に、居酒屋の店員がYを連れてきてくれた。Yは、十年前と変わらない笑顔で私を見て、言った。

「あのとき代役させてくれたから、今の自分があるんですよ、本当にありがとうございます。それに先輩の舞台、けっこう見てたんですよ、友達が出たりしてたから。恥ずかしいから挨拶には行かなかったけど。最近やってないですよね」

 私はたぶん、このとき生まれて初めて、情けなくて泣いた。私が空虚な時間を過ごしていた十年間を、この子は真摯に芝居を続けるために使っていた。この子から見た私の芝居はどれだけ薄っぺらかったことだろうか。

「ごめんごめん、さっきの感動がまだ響いてて」と私は半分嘘をつき、涙を拭いて汚い笑顔を見せた。Yは笑って

「わかる、先輩好きだろうなって思いました。何本かしか見てないですけど、先輩の書くお話って、出てくるものは全部どっかで見たような感じなのに、なんか全部違うんですよね。うまく言えないですけど、あのセリフ私だったらどう言うんだろうって思って観てました」

 それから五年後、私の作演出の舞台にYを呼んだ。3才の子供を抱えたYは、子供を抱いたままあの笑顔で「どんな役でも」と言ってくれたので、主役をお願いした。評判は上々で、興行としても次が打てる程度には成り立った。

 あれから時が経った。いま、私たちの国は戦争をしている。テレビでは国政に打って出たS(初主演の舞台を発熱で降りたあのS)が、国民一丸となってこの難局に立ち向かうために娯楽を排除しようと金切り声を上げている。

 小劇場演劇は、法律で禁止された。20人以上の人間が同じ場所に集まるには国の許可が要る。結社の自由も禁止され、戯曲は配布することも禁じられた。路上で即興劇をした仲間たちは、皆逮捕されて北の方へと送られた。

 私はいま、新しい演劇の計画を立てている。まだ「演劇があった」ことまでは消されていない。歴史の中で存在し、ついこの前までは私たちの生きる糧だった「演劇」を復活させるためには、法律の届かない僻地へ行く必要がある。

 第一次火星移民団へ応募するのは、自ら棄民として立候補するようなものだ。火星移民になれば、すべての罪は恩赦され、借金は帳消しになり、片道切符を得て火星へ行くことができる。だからまともな人間は応募しない。

 私のような、浮かれたバカじゃなければ、できないこともある。

 演劇なんて見たこともない人々に、演劇をやらせよう。長い旅路を経てたどり着いた火星の地で、唯一の娯楽を演劇にしてやろう。どこかで見たような話の展開、どこかで聞いたようなセリフのつながり、誰かがどこかでやったことを、組み合わせて並べてるだけのまがいもので、最高に楽しい時間を過ごささせよう。

 演劇は死なない。死なせるもんか。

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