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痛みは見てもわからない。

【モノローグ】

 演技をする。舞台で演技をする。例えば怪我をした時にする演技は、怪我をしたところをかばったり、脚を怪我しているなら怪我している方の脚を引きずったり、痛いところを刺激されたら顔をしかめたりする。とにかく、痛みを感じているのだ、ということを伝えないければ、痛みを感じていることが、観客には伝わらない。舞台では、特に舞台では、そこで起こっていることは全て虚構であるという前提が共有されているからだ。

 本当だろうか。映画では特殊メイクで皮膚が裂けて折れた骨が飛び出した姿を見せることができる。「うわっ、痛そう」という傷を顔に施して、痛そうという感覚を本物のように観客に感じさせることができる。舞台ではそれができない、だから痛みは身体の表現によってなされるべきだ。

 いや、そうじゃなくて、映画とか舞台の違いではなくて。

 現実では、傷を見れない時もある。膝に水が溜まっている時の痛みは、外見では脚を引きずる姿でしか「わかる」ことができない。ましてや心の傷は。

 心の傷は、目には見えない。誰の目にも。自分の目にも。

 ひどくえぐれた心の傷は、日々の幸せで癒されていく。盛り上がった肉が傷を塞ぎ、薄皮がはり、傷跡は見えない。傷跡は見えない。

 痛みは見てもわからない。痛いということに目をつぶれば、生きていける。

 でも、ある時その傷は破れる。血も出ない、見てもわからない。

 ただ小さな悲鳴が遠くで聞こえる。

 その悲鳴を聞こう。それは自分の悲鳴だ。

 最近は、自分の人生で、たくさんの人を傷つけてしまったことばかりを考える。離れていった人もたくさんいる。だから自分の受けた傷なんて大したことない、そう考えるようにしている。自分は傷ついていない、他の多くの苦しんでいる人々に比べたら、こんなの大したことない。幸せなことの方が人生には多いはずだし、現にこうして文字を書く自由だってある。住む場所も、食べる食事も、吸う空気も、選ぶことができる。だから痛みもない、傷もない、大丈夫だ。ぼくがもし苦しんでいるとしたら、それは全部ぼくの不明が招いた責だ。ぼくが悪いんだ。他の誰も悪くない、ぼくが何もかも悪いんだ。

 悲鳴が聞こえる。どこか遠くで。聞きおぼえのある自分の声が。

 ぼくには助けることができない。

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