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パンの焼き方。

【小説】【友人】【家電】

 長年使っていたオーブンレンジがとうとう音を上げた。しばらく前からスタートボタンの接触が悪くなり、押し込む角度や強さ、タイミングの違いによって、動いたり動かなかったりしていたのが、とうとうスンとも言わなくなった。

 それで、新しいオーブンレンジを買った。電子レンジのみなら五千円でも買えるが、やはりオーブン機能はほしい。アマゾンで人気の、1万いくらで買えるものを購入し、ついでに粗大ごみの申込みをした。

 家電に思い入れがない。コンビニで粗大ごみのシールを買うときにも、シールを貼って共有のゴミ置き場に出すときも、なんの感慨もわかなかった。
 友人は、そんな私を人でなしと言う。彼女は先日、洗濯機を買い替えてから一週間ほど臥せっていたらしい。

「家電は家族だよ、だって家って漢字が含まれてるでしょ?」

  ともに過ごした時間や、経験が、その家電との絆を形作る。その洗濯機はまず排水バルブがおかしくなった。注水しても水がたまらず、洗濯が始まらない。それで彼女は風呂桶で洗濯物を踏み、脱水乾燥機として使うようになった。次に乾燥機能が働かなくなり、そしてついには脱水ができなくなった。だんだんと機能を失っていく洗濯機と共に過ごすことで、愛着は深く激しいものへと変わっていったと言う。

 パンの焼き方を教えてくれたのは彼女だ。せっかくのオーブンレンジを、冷凍食品を温めることにしか使っていなかった私を、スーパーと百均に連れていき、二千円ほどで道具と材料を揃えさせた。

「オーブンの使い方がよくわからなくて」と苦笑いをする私に、彼女は真剣な目でオーブンの素晴らしさを語った。

 パンを焼くのに大切なのは、自分の家にあるオーブンと対話することだ。焼きたいものの大きさに合わせて温度と時間を調節する。レシピに書いてある温度と時間は指針に過ぎない。オーブンひとつひとつに相応しい温度と時間がある。

 6年程の友人関係が続いている。私は未だに彼女のどのスイッチを押せばいいのかわからないが、彼女は私の取扱説明書を暗記しているようだ。適切な温度と時間。

 私は朝早くに起きて、レシピを見ながら小麦粉をこねる。イーストを発酵させる時間、温度、回数、さまざまな要素が重なり合って、パンのタネは出来上がる。一時間、ガスを抜いてまた一時間、小分けにして休ませて、更に30分。有名なシェフが「料理のおいしさはかけた時間には比例しない。でも愛を込めて相手を思いやって作れば必ず時間がかかる」と、なにかのドキュメンタリーで言っていた。愛と思いやり。

 ともに過ごした時間。

 3年前に職場でうつになり、退職して自宅療養をしている。幸いにも在宅での仕事が順調で、生きていくのに支障はない。日陰の植物のように静かにゆっくりと生きていたいという願いはかなえられた。

 彼女の休みの日に、私はパンを焼く。彼女は散歩のついでに私の家に寄り、パンを食べて帰る。

 昼になり、ドアベルが鳴る。

 焼き上がったパンを網の上で冷ましながら、私は家電を大切にすることの素晴らしさについての高説を聞く。買い替えたばかりのオーブンレンジで焼いたパンの味は、彼女を満足させてくれるだろうか。

 適切な温度と、ともに過ごした時間。

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