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演技の上手い下手を見分ける方法

 まず初めに言っておきたいことがある。あなたはきっとこのnoteを読む前から、不思議に思っているはずだ「だって演技が下手なのも、上手いのも、見ればわかるじゃないかあ」そりゃそうだ。「棒読み」なんて評価も一般的に使われているし、大根役者だって(語源はともあれ)いまだに俎上に出る。要は素人が訓練をせずに舞台に上がることを「下手」よぶのだろうか?

 本稿では、そのような曖昧な思い込みを脱して、真に役に立つ「演技の上手い下手を見分ける方法」をあなたが学べるようなことを書いていきたい。なぜ観客であるあなたに演技の上手い下手が「わかる」のか、そしてそれがなぜ「思い込み」なのか。

 大きくわけて、演技の上手い下手を語るには、三つの基準が要る。

巧みな役者

 ひとつ目は製作者に好かれる「巧みな役者」だ。監督、演出家、プロデューサーが口を揃えて「使いたいなあ」と思う役者だ。自分から案を出すが、決して創作者の領分を犯さない節度がある。他の役者の演技力がどうあれ、そのシーンを成り立たせるよう工夫をする、その上で自分の役には全力をかけて、しっかり心に残る演技を導き出すことができる。こんな便利な役者なら、どんなに間抜けな演出家でも「また使いたい!」と思ってしまう。そのための能力を磨いた、努力型の上手い役者だ。

すごい役者

 誰もが認める「すごい役者」というのがいる。稽古場に来ただけで場が凛と引き締まる。この人が来るならセリフ入れて来なきゃね!共演するだけで芝居が上手くなる効能まである。演出家も文句もなく認めるその演技は、しばしば脚本家、演出家の理想を遥かに超えた領域の演技を見せてくれる。じゃあ、彼が常にいつでも技術的に驚くべきことを繰り出すかと言うと、実はそうでもない。人並みにとちることもあるし、セリフの入りが悪ければ台本も持つ。役者としてのカリスマ性と、人間らしい佇まいが同居する姿に、感動さえ覚える。天性型の上手い役者だ。

記憶に残る役者

 韓国映画の『The Good, the Bad, the Weird(良いやつ、悪いやつ、変なやつ)』のタイトルは、物語において観客に愛されるキャラクターの全てを言い表している良い例だ。役者もまた「変なやつ」であることが、その人生を救うこともある。いわゆる一般的な下手の基準を満たし、勘の悪い演出家なら見逃しちゃうね、と言いたくなるようなその演技は、なぜかその役者にしか作れない特殊な空気に舞台を染め上げる。変な声、変な動き、変な発想。それらは全て、腕のある演出家にかかれば面白さや感動に変わる。

 こうして、物語は作られていく。

主人公は良いやつで、ライバルが悪いやつ、そして物語を盛り上げる変なやつがいる。観客は素晴らしい舞台を観た記憶とともに、家路を急ぐ。主役が良かった、ライバルのあの役が良かった、脇役のあの役が良かった、アンサンブルのあの変な人の名前をパンフで確認しなきゃ。ヒロインも可愛くてよかったねえ。それでええと、あれはなんの役だっけ? ああ、いたね、うん、まあ邪魔にはなってなかったんじゃない?あんまり覚えてないけど。

 誰だっけ。

記憶に残らない役者

 三つの基準を満たさない、普通の人間。板の上に立つ資格を持たない、ただの一般人。これだ、これが下手な役者だ。観客は良い舞台を見た時に、その背後に隠れた「下手な役者のこと」は記憶から消し去ってしまうのだ。残酷なことだが、それが真実だ。もし「あの下手な役者のせいで全部台無しだよ」と思ったことがあるなら、それは演出家がクソ下手で、本来ならば記憶に残らないような役者を目立たせようと頑張ってしまった、あなたを不快にしたせいだ。ご愁傷様。

 そう、下手な役者とは「誰の記憶にも残らない役者」のことだ。

 下手な役者はそもそも基礎を学んでいなかったり、学んでいても理解できていなかったり、あまつさえ勘違いや間違いを学んだまま育ち、頑固にそれを守ろうとする。演劇をまるで学校のテストのように捉えており、家で一生懸命予習して来た演技を稽古場で披露して、ダメ出しをされると落ち込み、引きずり、プライドを傷つけられたことばかりを記憶する。なぜそうなるのか。

 彼らが守りたいのは”過去”であり、稽古場で過ごす“今”ではないからだ。

稽古場に可燃物を持ち込もう

 良い演技とは、その場で着火する可燃物の起こす赤い炎だ。それが臨界点に達して爆発するのか、冷や水をかけられて鎮火するのか、それとも熾火のように内側で燃えて表面は生きたまま内部を炭化させていくのか、それに触れてみるまでは誰にもわからない。そういう「危険物」なのだ。

 可燃物と可燃物が稽古場で近づけば、そこでは必ず何らかの変化が起こる。家で用意して来た頭の中で考えつくレベルの演技など、稽古場で過ごす1分で容易に覆ってしまう。その積み重ねが舞台を形作っていく。

 下手な役者は、準備して来た演技を捨て去れない。何よりその場で着火できないから、着火して変化していく周囲の演技に噛み合うことができない。勝手に燃えることでもない、他人に調子を合わせて燃えたふりをすることなど求めてはいない。ただ可燃物として稽古場にいて欲しいだけなのに、それができない。

 怖いから、かもしれない。自分が変わってしまうことへの恐怖。誰かの影響を受けて変わってしまえば、二度と元の自分に戻れないような気がするのかもしれない。

 安心していい、その程度の「自分」はきっと、テレビや広告やTwitterを見るたびに変化して、二度と元には戻っていない。

演技の上手い下手を見分ける方法

 もうお分かりだろう。あなたを燃やして薪にするのが上手い役者、あなたを無事に劇場から出して、2秒後に忘れさせるのが下手な役者だ。あなたが今まで「上手い」と思えていたのは役者たちが「記憶に残る」存在だったからであって、技術の巧拙や美醜などはものの基準ではない。あなたが今まで「下手」だと思っていたものは、演出の不備や制作の事情によるキャスティングミスによる不快感だ。

 安心してあなたは自分の好きな役者を「上手い」と褒めていい。他の誰がどう言おうと、その役者はあなたの記憶に残った。それが全てだ。

観客席の温度を上げたい

 どんな演出家だって、その舞台に関わった役者全員が「上手いなあ」と言われるような舞台を作りたい。「あの子、こんな演技もできるんだ!」と気づいてもらいたい。「そうそうこれこれ、こう言うのがいいんだよ」と満足してもらいたい。精緻に組み立てた立ち位置や動きなんてまるで見えないように、その場の役者の思いつきで動いているように見える、そんな舞台を目指したい。 

 役者一人一人の中にある可燃物に、真っ赤な火をつけて燃やしたい。

 観客席のあなたも可燃物なのだ、燃やされる日を待っている。

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