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『黒いけものと赤いくつ』 麻草郁

けものは森に棲んでいました。人よりも小さく、先の丸くなった弱い爪と、木の根でも噛めば折れてしまいそうな牙を持った、ひよわなけものは、黒い毛皮だけが自慢でした。

「わしの黒い毛皮は、わしだけのものじゃ、山猫のまだらの毛皮をみろ、テンの焦げたような毛皮をみろ。ほうれ、真っ黒でツヤツヤしたわしの毛皮が一番じゃ」

山でほかの動物にいじめられても、けものは巣のちかくにある湖に自分のすがたをうつして、独り言を言うのでした。

たしかに、夕陽の赤に照らされてツヤツヤと光るけものの毛皮は、まるでカチカチ燃える石炭のようでした。

そして、けものは巣に帰ると、くやし涙をぬぐうように、前脚のあいだに頭を垂れて、ねむるのでした。そんな夜に見る夢は、きまって大きな化け物の夢でした。

夢の中で、けものは大きな大きな体とするどい爪と、耳までさけた真っ赤な口に、真っ白な牙をたくわえた化け物になって、どこまでもどこまでも走っていくのです。

けものがある日、湖のそばで羽虫を食べていると、人の子があらわれました。それは脚の先が真っ赤で、肌は白くて、とても良い匂いがしました。よく森でけものを追い立てる、きこりのような毛むくじゃらではありませんでした。

驚いたけものが羽虫をのどにつまらせてうめいていると、人の子は背中をとんとんと叩き、助けてくれました。

人の子は、けものの毛皮をほめました。

「けものの毛皮は黒くてきれいだね」

背中をなでられて、いい気になっていたけものは言いました。

「お前の脚の先もツヤツヤして真っ赤できれいだな」

すると人の子は笑って、これは「くつ」と言うのだ、と教えてくれました。

けものはその夜、はじめて前脚のあいだに頭を垂れず、すやすやとねむりました。

それからしばらくのあいだ、けものと人の子は楽しく過ごしました。ところがある日、けものが一匹で湖に自分のすがたをうつしていると、誰かが小石を投げてきました。それは、村に住む人でした。

「出ていけ!」

けものはあわてて隠れました。どこにも、人のすがたは見えません。けものがそーっと湖にもどってしばらくすると、また小石が投げ込まれます。

笑い声さえ聞こえてくるようでした。

「わしがびくつくのを、楽しんでいるのか、わしをからかって、遊んでいるのか」

けものはいままでにない気持ちになりました。逃げるのをやめて、立ち向かおうと思ったのです。それは、赤いくつの人の子が、けものの黒い毛皮をほめていてくれたからかもしれません。かよわい爪を立てて、けものは小石の飛んできた方へ走り、小石を投げた人に飛びかかりました。

わっ! と声をあげて、人は逃げました。まわりにも何人かいるようでした。けものはせいいっぱい牙をむいて吠えました。すると、人は走って逃げていきました。

しばらくして、赤いくつの人の子が来ると、けものは自慢げに牙と爪を見せびらかしました。

「わしは弱くない、この爪もこの牙も、立派に悪いやつを追い立てられる」

「でも、けものの良いところは、その黒い毛皮なのに?」

人の子は、すこし困ったような顔でほほえみましたが、けものは気がつきませんでした。

それからはいたちごっこでした。けものが一匹でいると、前よりも大きな石が投げ込まれ、けものは前よりも大きな声で吠えるのでした。それでもけものは、湖をまもるために必死でした。前よりもたくさんの羽虫を食べて、草を食べました。なにしろ意地悪な人は数を増し、ひどいときは大勢で尖った石を投げるのです。

そしてとうとう、けものは、石を投げていた人にのしかかり、とどめを刺して、黙らせました。

人の首に開いた傷口から流れる血をのむと、なんだか力がわいてくるようでした。

「こんな、かんたんなことだったのか、わしはいままで、なにをしていたのだ」

それから人は、なまりの弾を火薬で撃ちこんだり、森に火を放ったりしましたが、けものはあきらめませんでした。この湖は人の子との大事な場所でしたから、ぜったいに守らなければいけないと思っていたのです。

ある日。けものが湖に自分のすがたをうつすと、なんだか湖が小さくなったような気がしました。

「もしかしたら、やつらが埋めたのではないか」

けものは気になって巣にも帰らず湖の番をしました。ところが日に日に湖は小さくなっていきます。

たまに来る、けむくじゃらのちいさな人を食いながら、けものは思いました。

「もうゆるさん、人らはわしをからかって、湖さえなくそうとする、もうゆるさん」

けものはゆうるりと立ち上がり、山をこえて村に走りました。むかしは峠をひとつこえるのに三日はかかったものが、いまのけものには、あっという間のことでした。

けものが村にあらわれると、人々は悲鳴をあげてにげまわりました。槍や弓でたたかいをいどむ者もいましたが、けものはそれらの体を引き裂いて血をすすりました。

たくさんの人を殺しながら、けものは「湖をかえせ」と叫びましたが、人々は怯えた顔で泣き叫ぶだけでした。

ひととおり殺し、食いおわると、けものはぼんやりと遠くの空を眺めました。夕陽が赤く雲をそめていました。

「そうじゃ、わしの黒くてきれいな毛皮を湖にうつそう」

けものはゆうるりと山をこえ、湖に戻りました。ふと、心のはじに、赤いくつの人の子の困ったような笑顔が浮かびましたが、それがなんなのかわからず、けものはただ言い訳をくりかえしました。

「わしは悪くない、わしは悪くない、はじめに石を放ったのは奴らじゃ、わしは悪くない」

いつもの水辺にきて、けものは人の子を探しました。けれど、いくら探しても、人の子のすがたは見えません。

ふと、小さなみずたまりになってしまった湖に目をおとすと、そこにはかつて、夢に出てきた大きな黒い化け物がおりました。

化け物の頭は雲をつくほどの高さになっていました。

ところが、けものが驚いて上を見上げても、青い空にはなにもありません。

「これは、わしか」

みずたまりにうつっていたのは、けものの姿でした。けものは自分でも気づかないうちに、大きな大きな体とするどい爪と、耳までさけた真っ赤な口に、真っ白な牙をたくわえた化け物になっていたのです。

「みずうみが小さくなったのではない、わしが大きくなったのだな」

けものは大きな頭を垂れて、前脚の間にもぐりこませました。すると、何本にも枝分かれした前脚の先に、ちいさな赤いものが見えます。

それは

それは

それは、あの、人の子が履いていた、ちいさな赤いくつでした。

けものは人らを飲み込むときに、小さな小さな赤いくつの人の子をも、噛み砕き、飲み込んでいたのです。

けものは泣きました。前足の間に頭を垂れて、夜も昼もなく泣きました。そして、涙が果てるとそのまま動かなくなり、黒くておおきな山になりました。

おしまい

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