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福は内、鬼も内

早くも一年の十二分の一が過ぎ、暦に節分や立春の文字を見つけると、季節の節目を行事として大切にする日本人らしさを感じます。季節の節目が曖昧な南カリフォルニアでは、せいぜい夏時間や冬時間の修正によって、人工的に季節を感じさせるしかないのかもしれません。今更ながら、自然の移り変わりを気候や行事で体感する日本の四季は、素晴らしい自然や文化の遺産であることに気がつきます。

柊鰯

節分の頃だったのか、散歩をしていて、柊鰯(ひいらぎいわし)や十三月と書いた木の札が、戸口や玄関などにつけてある家を見つけることがありました。どうやら、鬼は鰯が焼けた時の煙が嫌いなようで、トゲトゲした柊の葉は最強の鬼払いになるのだそうです。十三月と書いたお札を貼ると、「十三月?」という聞いたことがない月に鬼が考え込み、その間に夜が明けてしまうとか、迷った鬼が帰ってしまうということを狙った古くからの邪気払いなのだそうです。恵方巻きは、その年の年神様の方角で事を行うことで福を願うという関西発祥の風習です。


季節の節目を感じ、邪気を払い、無病息災を願うのが節分という行事です。豆は五穀の象徴であり、神が宿ると信じてきましたから、「福は内」と唱えながら、そして豆=魔目(鬼の目)を滅ぼすということから、「鬼は外」と言って豆を蒔く風習が根付いていったそうです。


調べてみると、「鬼は内」と言う家もあるようです。昔話でもあるように、鬼にもいろいろな鬼がいます。『桃太郎』の鬼は悪の象徴でしたが、『泣いた赤鬼』の鬼には、情があります。良い鬼も存在し、鬼を神として拝めたり共存する伝説がある地域や、鬼の字を使う苗字がある所などでは、「鬼は内」と言う家も多いようです。


結局、鬼の全てが悪いというよりも、福も鬼も自分の心の中にあるひとつのものなのだと考えると合点がいきます。欧米風に言えば、天使と悪魔です。どちらかが善で、どちらかが悪だと完全に分けるのではなく、善と悪、あるいは福と鬼は表裏一体だと考えることが、「鬼は内」と唱えることにつながっているのかもしれません。誰でも心に、陰陽を持っています。鬼を追い払うことよりも、自分の中の鬼といかに折り合いをつけながら生きようと考えた方が、より福を感じる生活が送れる気がします。 

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