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ジェームスと翔平

「日本人の体格でアメフトやるの?」

アメリカではアメリカン・フットボールは花形スポーツです。どんなスポーツよりもアメフト部にいるというだけで尊敬されますし、チアリーダーもアメフトの試合に一番出場したがるのです。アメリカ人の中では決して大柄でもない息子が高校でアメリカン・フットボールをやり出すと言い出した時に、親として賛成すべきなのか一瞬迷ったのですが、本人がやりたいことをすべきなので、反対はしませんでした。

私が住む地区は白人よりもアジア系の住人が若干多く、差別的な意識が少ないところでもありますが、スポーツ競技では違います。どうしても体格の勝る白人や黒人系、メキシカン系が一軍で活躍することになるので、入部できたとしても試合に出られるのかと思ったのですが、そんな親の心配をよそに、社交的で誰とでもすぐに仲間になれる息子は、勉強よりもアメフトばかりに汗を流す日々を続けていました。

そこで一緒に汗を書いていたのがジェームス・カプレリアンでした。根っからのスポーツ才能がある生徒で、どんなスポーツをしても人並み以上にできる人っていると思いますが、それがジェームスでした。ですから彼はアメフトだけでなく、ベースボールでも花形の選手でした。日本では2つの部活を兼ねるなんてことができるのかは不明ですが、才能を伸ばそうとするアメリカの教育の考え方では良くあることです。

市内でも人口増加のために新設されたばかりの高校でしたが、立派なアメフトグランドが出来上がり、ジェームスのような天才がいたからなのか、アメフトチームはなぜか強豪チームになっていきました。息子もジェームスと一緒にレギュラーで毎回試合に出場できるようになりました。そして高校4年生の最後の試合。予選を勝ち抜き、地区のCIFの決勝戦は数万人が入るグランドで毎年優勝するようなチームとの戦いになりました。最後まで一点を争うゲームとなり、親としてはハラハラしましたが、最終プレーでタッチダウンを奪うことができずに敗退したのでした。息子もジェームズも涙と汗でぐちゃぐちゃでした。やり切ったという満足感もそこにはあったと思います。青春の1ページでした。

ジェームスの母は学校の先生でしたが、乳がんで早くに亡くなりました。ジェームスは高校を卒業するとUCLAにベースボールの特待生として入学し、3年の時にヤンキースに指名されて大学を中退してMLB入りしました。そこから約10年が経過し、ジェームスはアスレチックスに移籍し、2022年8月3日のエンゼルスとの試合に先発することになったのです。ご存知のように、大谷翔平投手との投げ合いになりました。もちろんこの対戦を生で見たいと思ってエンゼルス・スタジアムに行ったのは言うまでもありません。

スタジアムの正面には、人気選手の写真と共に大谷選手の写真も


試合前、ジャームスと翔平は外野にボールをぶつけるウォーミングアップを近くで続けていました。ずっと、練習を眺めていましたが、近すぎず、遠すぎず、声をかけることもなく二人は黙々と自分自身のルーティーンを続けていました。


左から2番目がジェームス、一番右が翔平

試合前のアナウンスがジェームスを紹介しました。

スタジアムの画面に紹介され、左下のブルペンで投げるのがジェームス

そして翔平も紹介され、ひときわ大きな声援がグランドに鳴り響きました。

SHOHEI OHTANIのどでかい画面

もちろん翔平の方が有名で実績もありますが、ホームゲームでOHTANIのシャツを着た大勢の観客の中に埋まって、私たち家族は密かにジェームスを応援していました。

ベーブルースの記録に並ぶ翔平の10勝目を見に、日本からも多くの観客が試合を見に来ていました。結果は多くの観客と日本人の方々の応援にも関わらず、翔平は3点を取られて負け投手になり、ジェームスには3勝目が入りました。球場があるアナハイム市は、ロサンゼルス・カウンティーのお隣のオレンジ・カウンティーにあります。ジェームスにとってオレンジ・カウンティーは地元ですので、息子だけでなくアメフトの同級生も皆、立派なおっさんになって応援に来ていました。


ジェームスも久しぶりに自宅に戻って、家族と勝利を祝っているかもしれません。息子の無謀なアメフト入りから、ジェームスと翔平に繋がって行くなんて想像もつきませんでした。そんなことを考えるだけで、これからの青年たちの将来にワクワクします。ベースボールを見に行くことがこんなに幸せをくれるのか、あらためて実感をした1日でした。


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