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こだわりとは

子供の頃、幼稚園や学校で聞かれたり提出させられる「大きくなったら何になりたい?」という質問が大の苦手だった。今でも覚えている、5歳でそれを先生に聞かれて、「スーパーのレジで働いてみたいけれど、多分それいったらうちのお母さん嫌がりそう。」と思った私は心にもなく「ピアノの先生」と言ってピアノを弾く絵まで描いて提出したのだ。そこまで思ったという事を母が知っていたのかどうかは知らないし、我ながら可愛くない五歳児だったんだなと思う。更に、段々大きくなっていくと周りの友達の多くが何かのファンだった。漫画やアニメだったり、アイドルや歌手だったり。弟には応援している野球とサッカーのチームがあった。

あるアイドルに夢中になっている友達が毎日毎日そのアイドルの魅力について語ったり、こんなドラマに出てるんだよとか語ってくれるのを聞くのが好きだった。全くそのアイドルについて興味は持てなかったのだけれども、友達がキラキラした目でいかにその人がかっこいいのかとありとあらゆる言葉で語れるその情熱がひたすら羨ましかった。当時の私には、好きな歌を聴いたり、勉強とピアノの合間というか寝る時間を削ってでも漫画や小説を読むのが好きではあったのだけれども、「ファン」という絶対的な立場まではいってなくて、ああいいな、と思うものを何でもかんでも一人で楽しむものだった。

もう一つ苦手だった、というか今でもちょっと苦手なのが「ピアニスト(または音楽家)で誰が好き?」と聞かれること。子供の頃苦手だった理由は、先生から勉強している曲のCDを何か聴いたのか?と聞かれて、たまたま家にあったある大御所ピアニストの録音を聴きましたと言ったところ、驚くほどそれを否定されてそんなもの聴いたら駄目だ!と怒られた事が何度かあったのだ。駄目って、こんなめっちゃくちゃ有名で誰もが知っているピアニストの録音が「そんなもの」と言われた事にまず驚いたし、別にそれを聴いて真似したつもりもないし、「大好きなんです」と言ったわけでもないのになあと何とも消化できない思いとなって残った。逆に大人になってからこの質問をされた時に、この人のこのプログラムが好きです、とか言うと大抵質問してくる人ははっきりした「好きな人」がいる場合が多いので、否定してくる人もいれば、その人の愛を語りだすので、語ってもらうことにしている。

要するに私は、誰かに否定されてでも「愛」を語る勇気がないのかもしれない。それは小さい頃に親や先生に否定される環境にあったせいかもしれないし、単なる性格なのかもしれない。

ただ、じゃあ私は何でもいいというわけでは全く無い。

「これのここが嫌」

と言い方を変えれば、かなり好き嫌いがはっきりしている。


強く何かを求められない

その事で特に20代、30代前半の時は苦労した。苦労というか、周りからすごくもどかしく、頼りなく見えていたのか、「夢にむかってとか、死ぬ気でとか、がむしゃらにとか、そういうのが君には足りない」とよく言われた。

まあ事実なんだろう。そもそも「夢」というものがないのだから。「どうしても有名なピアニストになりたい」「あの国のあのホールでデビューしたい」的なことを考えたことがなかった。ただ1つ静かに私の中にずっとあるのは、「一生ピアノを弾く為に、音楽と関わる為に(仕事という形で)、何が今できるのだろうか」という事だけだ。なので、「これは嫌い」「これは生理的に受け付けられない」と思うことを、どれだけ周りから「何で?」と言われてもやらないで進んでいくというのは、結構私としては重要なのだ。

すごい演奏家でもないし、えらい先生にもなっていないし、大富豪にもなれそうにないけれど、今の自分はそれなりに忙しく、色々な新しい人や事柄と出会える環境で働けるのを楽しんでいる。そうやって選択して、生きていくっていうのを「こだわり」と言うのではないかなあと思うのだけど。

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