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僕たちは漕ぎ続ける。舟は流れに逆らい、過去へと流されていくけれども。

昨年12月に高校時代の友人があっけなく交通事故で亡くなった。彼は英文法の研究を志し、日々努力していたが、彼の夢は死によって打ち砕かれた。彼のパソコンの読書録には、数十冊分の詳細な記録が残っていた。
僕は彼が亡くなった直後に21歳になった。20歳になったときは、大人になったんだ、とウキウキしていたけれども、21歳になって、重いものが胸に残った。


もう20歳でもないのか。何もやり遂げていないではないか。


正門からキャンパスに入り、駐輪場に自転車を置く。イチョウの木が並ぶ道を歩く。春休みなので歩く人はほとんどいない。揚げ物のにおいが漂う、最近開業した白い学生食堂の前を通り抜ける。その少し先に古びた茶色の図書館がある。古書もたくさん所蔵する図書館で、中に入ると古本屋の空気がある。「瞬間の高揚」という、アメリカ文学の研究書を借りた。

僕は大学4年生になろうとしていて、すでに卒業に必要な単位は取ってしまったので、あとは卒業論文を書けばよかった。「瞬間の高揚」は、担当の先生が卒論のヒントになると言って紹介してくれた本だった。

大学を離れるとき、この卒業論文の完成が、虚しさや無力さを含んだ、今の重い心を救ってくれることを願っていた。卒論という一点を突破すれば、自分は変わる。豊かな時間が流れ始めるはずだ。

アパートに帰って、カップラーメンをすすった。貧弱な夕食だが、腹は膨れた。さて、「瞬間の高揚」を読んでみよう、と表紙をめくる。

ヘミングウェイは、戦争、釣り、闘牛、酒・・・瞬間、瞬間に心を高ぶらせるものに夢中になった。人は最後には死んでいく、という虚無感に苦しんでいたからだ。
彼が小説の中に書いたのは、その虚無感そのものである。しかし、唯一、虚無感を乗り越えた作品がある。「誰がために鐘が鳴る」である。

主人公の兵士はスペイン戦争において、橋を破壊する指令を受けた。
彼は仲間とこの指令を果たすうちに思う。
… it is possible to live as full a life in seventy hours as in seventy years…

70時間で、70年以上の満ち足りた人生を生きることは不可能ではない…
この瞬く間の任務は、自分の長い人生と置き換えられる。


研究書を読み進めていると、なぜか、突然、大きな風呂に浸かってみたくなった。久しぶりに銭湯へ行こう。僕はアパート近くの銭湯へ向かった。

午後10時ともなれば、客は少なく、湯舟を独り占めできた。
気持ちいいな。しばらく、ゆったりした時間を過ごした。

銭湯からの帰り道に、雪が静かに降り始める。3月なのに。
アパートへ続く道が、あっという間に白くなる。

道沿いの古びた家々からは何の音も聞こえない。
もうみんな寝てしまったのか。
すべてが静けさに包まれている。
街灯がぼんやり雪の道を照らす。

アパートにたどり着く。掲示板の張り紙が風に揺られて遠慮がちに小さな音をたてる。気がつけば雪は止んでいる。

歩いてきた道を振り返ったとき、僕の心は少しだけ温度を上げた。誰も踏んでいない雪の道を、僕の足跡だけが、こちらへ向かってくるのを見たからだ。足跡は一歩一歩着実に前進していた。


死んだ友人も僕も生きてきた。目に見えなくても何かを積み上げてきたのだ。僕はこれらの積み上げた何かを、もっともっと大切にする必要があるようだ。


見上げると、雪雲が去り、満天の星空。
星々の光は、先人たちの英知のようだ。
もっと学べ、と降り注ぐ。

星空を見ていたら、白いあご髭の日に焼けた顔が現れた気がした。パパ・ヘミングウェイが微笑んでいる。

ヘミングウェイは僕に向かって語りかける。


だれだって、心は重い。いつだって、空しさとの闘いだ。
だけど、人生について語りたいなら、まずは生きなければならない。
氷山は、海面に見えるのは7分の1にすぎない。7分の6は海の下だ。
この一年、ゆっくりハードボイルドの氷山を楽しんでくれ。


僕は、軽快に階段を駆け上がって、部屋のドアを開けた。

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