学びはいつでもひらかれている 8月17日(金)
つい「正しい答えを知りたい」と思ってしまう。
たとえば、社会問題について。専門家や自分が信頼している人の発言をざっと調べて、「なるほどそういうことか」と納得すれば、とりあえずの安心が得られる。
でも、「それでおしまい」でいいのだろうか?
気付きをくれた、2本の映画
そんなことを考えるきかっけになったのは、この夏観た2本の映画。たまたま両方とも教育に関する内容だった。
一つは『教育と愛国』、そしてもうひとつは『ぼくたちの哲学教室』。
『ぼくたちの哲学教室』の舞台は北アイルランドの小学校。数十年間紛争が続いた地域で、その記憶が今もなお人々の暮らしに暗い影を落とし続けている。恐怖、怒り、希望のなさ。困窮世帯や家庭崩壊、薬物使用や自殺をする若者も多い。ある子供は父親に「殴られたら必ず殴り返せ」と言われてそれを信じて育つ。
自分で考えるためにはどうすれば?
そんな場所で、校長先生が哲学の授業を始める。身近なテーマについて、9才のこどもたちに問いかける。「あなたはどう思う?」「なぜ?」「もしこうだったら?」
問いを立てること、言葉にすること、理由を挙げること。そして、仮設を立て「私はこうだと思う」と表明すること。そんな経験を繰り返すことで、子供たちは「自分で考えて判断する人」になってゆく。
映画に出てくる校長先生(こどもたちに哲学を教えている)の子供たちへの問いかけは、同時に映画を観る側にも向けられている。「暴力はなぜいけないの?」「どうすればよかったと思う?」「それはなぜ?」
「わたしの考え」はいつも心もとない
社会問題については、それなりに問題意識は持っているつもりだった。読んだり、考えたり、パートナーと話したり。それでもやはり、何かが足りなかったと思う。いったい、何が足りなかったのだろう?
これまで、暮らしまわりや食べることについて書いてきた。「わたしはこれを選びます」「これが好きです」「それはこれが理由です」。自分の感覚と経験をそのまま言葉にすればいい。でも、暮らしと分かちがたく結びついているはずの、社会の課題については、二の足を踏んでいた。
わたしの考えは、いつも心もとない。
歴史の基礎知識すらおぼつかず、そんな中で一生懸命考えて意見表明したところで、はたしてどれほどの価値があるだろうか?
社会問題に興味はあるのに、ことばにすることに気後れしていたのはそんな理由からだった。「答えのない問い」に、うっかり取り組んで、自分の思考のつたなさを見つめるのが恐ろしかったのだと思う(そしていまも)。
こんな先生に習いたかった!
『ぼくたちの哲学教室』の校長先生は「こんな先生に習いたかった!」とだれしもが思うような存在。そして、日本にも、「私の先生になってほしい」と思う人と出会った。『教育と愛国』に出演されていた平井美津子さん。大阪の公立中学校の社会の先生で、従軍慰安婦問題について教え続けている。幸運にも今回映画上映の後、お話を聞くことができた。
「正しい答えを教える」のではなく、「自分で考えて、自分で答えを出すことができるようになること」を目指していること、そして、それこそが教育であるという考えが、まっすぐに伝わってきた。
中学の歴史の授業では「こういうことが起こった」という事実を伝え、「なぜそれが起きたか?」「どう思う?」と問いかける。こどもたちが、「答えを教わる」ことから離れて、自分のこととして、自分のことばで考えはじめるために。そこで何より大切なのは、「お互いへの信頼」という土台があること。
北アイルランドと日本の教育現場で、粘り強く生徒と関わる二人の教育者から、「それで、あなたはどうしますか?」と私もまた問われた気がした。
映画を通じて出会ったふたりの先生は、「正解を教えるため」でなく、「考える人」を育てることで、「社会は自分たちで変えていける」ことを伝えている。そして、投げかけられた問いを受け取ることで、わたしもまた彼らの生徒になることができる。
学びはいつでもひらかれている
時間がかかっても、間違えても、考えることを手放さないでいようとおもう。自分の思考のつたなさを恥じることや、言葉にすることをためらうことがあったとしても。足りなさを、足りないままに言葉にすること。
遅すぎる、ということはないと思う。9才でも、47才でも、何才になっても、学びは等しくひらかれているのだから。
平井美津子さんのインタビュー
『ぼくたちの哲学教室』の校長先生のインタビュー