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ようやく意識が高まってきた

 この歳になって、最近ようやく体得したものがある。まだ青かりし頃には自分の人生には全く関係ないものとして、受け容れる余地をいっさい残さずに切り捨ててきた、「カフェで音楽を聴きながらポーカーフェイスでPCをカチャカチャやる」という、"意識高い系"のあれだ。

 最近家から徒歩2分にあるカフェで仕事をする日が続いている。5時間2000円くらいの滞在料金を払って、月末の請求処理をしたり、お客さんへのメールを打ったり、プライベート個室に移動してオンライン会議に参加したりしている。何を隠そうこのnoteも、今まさにカフェのテーブルでクールな顔をして、髪をかき上げたりかき上げなかったり、足を組んだり組まなかったりしながら書いている。AirPodsにはとりあえず洋楽を流している。

 カフェで仕事をすることになったきっかけは、特段これといって見当たらない。ある日突然(確か先週の月曜日)、家のデスクにあるPCやら充電器やらを超高速で一泊旅行用のでっかいバッグに乱暴に突っ込んで、着の身着のまま家を飛び出しカフェに辿り着いた。それはまるで、何か大きな存在(英語でいうところのSomething Greater)から「あなたはそれをしなければならない」とお告げがあったかのような勢いで。

 私はこれまでの、くだらなくも、自分にとってはたった一つの人生の中で、なぜだか「これをやらねばならない」とSomething Greaterに導かれるような気持ちになって、勝手にハイになって行動することが多々あった。最近スイス旅行でトライしたパラグライダーだったり、ラジオ番組の素人レポーターとしての活動だったり、大学時代に通った会計士予備校での時間だったり。これらはまさに、この「やらねば」という使命感に駆られ、それなりに成し遂げてきた、私の数少ない、そして愛おしい愛おしい成功体験たちだ。

 Something Greaterに与えられる「これをやらねばならない」という、まったくもってスピリチュアルかつUnlogicalな動機は、これまで私の人生を物理的にも精神的にも様々なところに連れて行ってくれた。結果は稀に成功する場合もあったけど、大抵のケースで私は激しく失敗した。それでもその過程で出会った友人やスキル、そして何より新しい自分を、自分なりに精一杯抱きしめながら前進するしか、人生に道はない。


 最近「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」という言葉についてよく考える。

 ほんの数カ月前までは1ミリも心を動かされることのなかったこのフレーズが、ここのところ気になって気になって仕方ない。
 何がこんなに気になるんだろう、と、私はこのパンデミックが生み出した使い勝手の良いおしゃれなカフェで、「今日はどこでランチしようかしら」みたいな涼し気な顔でディスプレイを見つめつつ、必要以上にこれまでの人生を振り返ったり、わかりもしない未来を想像したりしながら、頭がはげそうになるほど考え続けている。


 考え続けることは苦しい。特に、考える対象に意味を見出せなければ見出せないときほど、それは苦しい。なんのために鍛えられた考える力だ。なんのために与えられた思考回路だ。

 それでも、そんな苦しい自分をさらけ出すことが、いつか自分が知りたい言葉の真意を体得できる道に繋がっていると信じて、書きながら、また考える。





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