2. 現 実

私は異星人?

 このつらさは、「私が正常だ」という証拠なのだ。
 全介助の身になっても、なにもできなくなったわけではなく、体に大きな不自由をもたない人にはわからないことを、自らの生き方や体験を通じて理解してもらうという、この身でなくてはできない大切な役目があるのだ。私には視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、記憶力、思考力などの残存能力があるじゃないか——。

 「生まれ変わったつもりで、障害とともに、一からやり直していこう」と心に決めた私だったが、いざ自分の顔を鏡で見てみると、頭は丸坊主同然、痩せこけた顔は青白く、頬は麻痺し、口は大きく開いたまま閉まらないばかりか前歯がなくなっており、瞳には生気がなく、とても理解力があるとは思えない能面のような顔になっていた。もちろん鼻にはカニューレが入り、喉には、切開部に器具が付いている。

 驚いた。これでは、母がクラスメートやバレー部員のお見舞いを断っていたのも理解できる。それでも両親は、以前と同様の態度で私に接してくれていたが、こんな顔では、だれも、まともに扱ってはくれない……。

 私は、なんとか表情をつくろうとしたが、顔はピクリとも動かない。泣きたくなった時、鏡の中で顔の筋肉が動いたようだった。よかった——と思ったが、ニッコリできない。また泣きたくなった。が、今だ! 涙をこらえて全身の力をふりしぼり、心で笑ってみたところ、少し表情が動いた。

 私は、光る人の言葉を思い出し、考えた。今、私が泣いたところで何も変わらない。自分や家族の心を暗くするだけだ。それを明るくするためには…少しでもよくなること。それには早くだれかと話せるようにならないと、何も始まらない。だから…顔の筋肉が動かせるようになるために、思いきり笑うことにしよう——と。

 初めのうちは、看護婦さんの「おっと」「いけない」「あっ」などという場面を見ては、そんなにおかしくなくても笑っていた。当の本人は自分が笑われているとは思わず、「亜沙子ちゃんが笑ってるよ。何がうれしいんだろう」などと言っていた。なんだか異星人にでもなったような気がしたが、今の私にできる「自分はわかっているんだ」というアピールの方法はこれだけだった。

 ある時母が、「テレビを見ようね」と新聞のテレビ欄を見せてくれた。そこには、好きな歌手の名前があった。新聞の活字が読め、内容が理解できたのと、歌手の記憶が新たによみがえったことで、私は無性にうれくなった。その時私は、少し笑っていたらしい。医師に「知的にも損傷があるだろう」と言われていた母は、急いで看護婦さんに報告に行った。でも、看護婦さんたちは、自分の状態を知らされても泣かない私に理解力があるとは思わなかったようだ。

 ある日、おむつに排便した私は、わずかな力でも反応するように改造されたナースコールを押した。ベッドサイドにやってきた看護婦さんは臭いに気づき、すぐにおむつ交換をしてくれた。私は、自分の恥ずかしさと情けなさを、「そのうちにトイレでできるようになるんだ」という思いで打ち消しながら、おむつ交換をする看護婦さんに尊敬の念を抱いて天井を見ていた。ところが、思いもかけないことが起きた。その看護婦さんが、便のついたままのおむつを私の顔の前に持ってきたのだ。

 自分の体内にあったものとはいえ、その生々しい色と形、臭いに、悲鳴が頭中に響いた。「この人、何を考えているの?——」私は必死で顔を横に向け、息を止め、視線を外そうとしたが、私の表情は少しも変わらなかったらしく、看護婦さんは疑わし気な目つきと口調で、「本当にわかっているのかしら、この子」と言い捨て、ベッドを離れていった。

 歴史の教科書に、「人間は猿から進化し、手と火と言葉を用いるようになった」と書いてあったのを思い出す。どれも使えなくなってしまった私は、社会的に猿に退化してしまい、これからはずっと、そのように扱われるのだろうか——それだけは耐えられなかった。

 体に不自由のない人たちを中心に構成されている社会では、私のように、何もできない人間は、本当は迷惑な存在なのかもしれない。きっと、なかには嫌悪感を露骨に態度に出す人もいるだろう。だったら、意識のないうちに殺してほしかった。死んでいたら、私はずっと、あの白い光の中にいられたのに。苦しみも悲しみも悩みもない、喜びの世界に戻りたい……。私は涙を流した。

もう、話せない 

 車椅子に円座を敷けば、座っていられることがわかった私は、母と病院内を散歩するようになった。初めての私の文字盤(五十一音、濁点・半濁点、拗音のついた下敷きに、長音を書き入れたもの)を見た人は必ず、私の知能程度が低いかのように「ひらがなのお勉強ですか」と母に聞いた。何度情けない思いを味わったことか。

 そのうちに両親はそらで「あかさたなはまやらわん がざだばぱ きゃしゃちゃにゃひゃみゃりゃ……」が言えるようになった。考えてみると、他国語のアルファベット二十六文字をそらでスムーズに言える人より、母国語のひらがな・カタカナ八十八文字をそらでスムーズに言える人のほうが少ないなんて、変な国だ。

 その後、気管を閉じても私は呼吸困難は起こさなかったけれど、やはり、声が出るようにはならなかった。口も声帯も大きく開いたまま閉まらないし、舌も動かないのだから、話せるわけはないのだが、家族も私も心の奥では、声が出るのを期待していた。「もし私が、車椅子で生活しなければならなくなっても、話すことはできるだろう」という安易な思いは覆され、「アナウンサーになりたい」という私のかねてからの夢は、はかなく散った。

 私の状態が安定すると、親戚や学校の先生がお見舞いに来てくれるようになった。耳元で大声で話されたり、赤ちゃん言葉で話しかけられたり、「私の言っていることがわかりますか」なんて言われたり……、あまり面白くないことが多かったけれど……。

 カニューレを外し、おかゆと、非常に細かく刻んだおかずを混ぜ合わせたものを、鶴のように上を向いて飲み込む食事をするようになると、看護婦さんたちが私に、少しずつ話しかけてくれるようになり、私が受傷する前に好きだった歌手のポスターをくれることになった。本当を言うと、私はもう、その歌手に興味はなくなっていたのだが、首を振って「結構です」と言っているつもりなのに、動きが小さすぎて伝えることができず、しかたなくお礼に頭を下げてしまった。うまくコミュニケーションがとれないのだから、しかたがないけれど、これまでに一体どれだけの人が、こういう思いを味わってきたのだろう。

 最初に、クラス担任とクラブの先生が病院に来てくれた時は、ひどく麻痺した自分の顔を見せて驚かれるのが恐く、ずっと眠ったふりをしていた。私と一緒に事故に遭った生徒は皆、今は元気になって登校していると聞いて、「なぜ自分だけが」という思いが頭を過ぎった。試練だった。

 現代の日本は、毎日のように交通事故による死者や受傷者がでている。幸いにも私は救急医療によって命はとりとめたけれど、肉体と精神がばらばらになり、意思を伝える言葉を失ってしまった。母は「身体障害者手帳をとった」と言っていたから、何らかの形で国が私の生活を保護してくれるのだろうけれど、重度障害をもった私の今後の生活がどうなるのか、私が社会の中でどのように扱われていくのか、まったく見当がつかなかった。

通院と転院

 これからの私はリハビリをして、もっと自由に動き、コミュニケーションがとれるようになるために生きるのだ。そして十年後には、両親のもとを離れて生活できるようになる。ごみごみした街の中心から離れた、窓から緑が見える部屋に住む。そこで私はタイプライターを使って、この体験を書き表すのだ。光る人の言葉を胸に、将来に夢を描く……。

 そんな思いのかたわらで、私にはもう治療法がなく、家に帰るか、医療施設に入るか、転院するかの選択をしなければならなかった。「リハビリ(がしたい)」と私が答えたため、両親による病院探しが始まった。

 ある日、実習中の医学生と看護婦さんにストレッチャーからベッドに移動してもらう時、上体を持っていた医学生が手をすべらせて、私を床に落としてしまった。まだ体の感覚が戻っていなかったので痛みはなかったが、医療従事者も不特定多数の人に適用できる、移動介助の方法を知っていてほしいと思った。

 退院前夜、私はなぜか医学生に車椅子に乗せられ、脳外科の医局に連れていかれた。医師たちは、私に話しかけては、根気よく文字盤を使って答えを聞いてくれ、私の答えに感心していたが、最後にある先生が、「かわいそうに。この子はこれから大変だろう……」とひとこと言った。心に描いていた将来の図が消えかかった。まだ十三歳で、知識も経験もないに等しい時だったので、大人になってから受傷した人よりショックは軽かったと思うが、それでも、赤ちゃんのようになってしまった私の将来は、真っ暗に思えた。

一九八一年二月六日にS園に転院。

S園で

 S園には、リハビリ病院と養護学校が併設されていた。

 私は、様々な身体障害や疾患をもつ幼い子どもたちの姿を目のあたりにし、自分だけが大変なわけではない——と思い知った。とはいえ、私のように無表情で口は開いたまま、舌はまったく動かせず、食事をするとすぐにむせてしまってうまく食べられない子は他にはいなかったから、とてもみじめだった。髪も、いがぐり頭ほどまで伸びてきたので、入院している赤ちゃんのお母さんに、「お兄ちゃん」と呼びかけられることもあった。「違うよ」のひとことが言えなかった私は、そんなささいな言葉によってさえ、卑屈な気持ちになった。

 それまで病院の車椅子に乗っていた私は、S園に出入りしていた業者に頼んで自分の車椅子を作ることになった。そのころの私は見た目も弱々しく、姿勢保持ができなかったので、主治医や車椅子業者の言うとおりにリクライニング型にした。が、出来上がったものは想像以上に大きくて、それなりの広さをもつS園でも扱いにくく、看護婦さんには不評だった。自分に対する態度ではない——とわかっていても、そのような風当たりを受けることは、全介助の体であるという事実をつきつけられるよりもつらかった。そんなわけで私はまた、病院のスタンダード車椅子に乗るようになった。

 救急病院では、いつも母がそばにいて私の短い言葉を通訳してくれていたので、家族以外の人と直接コミュニケーションをとることはなかったが、S園では日常的に、家族以外の人たちとコミュニケーションをとらなければならなくなった。彼らは文字盤を指差したり、文字盤を見ながら聞くことが多かったので、前に聞いた文字を忘れたり、私のうなずきを見逃したりと、コミュニケーションにはけっこう時間がかかった。意思がうまく伝えられず、うまく介助してもらうことも難しく、看護婦さんや付添いさんのイライラした言葉にやりきれない思いがわいてくるのを、ぐっとこらえるのに必死だった。

 年度末に、病院併設の養護学校中等部入学のためのテストを受けた。当日、母はテストする先生に私とのコミュニケーションのとり方を説明してからその場を離れたにもかかわらず、その先生は問題を読むと、私に言葉での答えを求めた。この人は何を聞いていたのだろう——? 思わず私が呆れていると、答えられない私に、「わかりませんか? もう一度読みますよ……。わかりませんか? 茉本さん、もう疲れましたか?」を繰り返す。

「疲れていない」と首を振ってもわからず、先生は母を呼んできて、「疲れているようなので、テストはこれで終わりにします」と言う。人がしゃべれないと思って!——悔しくて、病室に帰って泣いてしまった。

 病院からの要請で、私に付添いがつくことになったが、年配の付添いさんには、私の介助もコミュニケーションも難しすぎた。お互いにイライラする日々が続き、付添いさんがめまぐるしく替わる結果を招いた。「まだ若いのに、かわいそう」「かわいい顔をしていたんだろうに、こんなになって、お母さんたちが大変だ」「そんな顔して見ないでよ」「口を閉じてよ。よだれが出るでしょうに」「汚い」……。以前の私の感覚でこれらの言葉を受けとめるにはあまりにもつらかったので、私は交通事故で一度死んだのだから——と再び自分に言い聞かせなければならなかった。

リハビリに向けて

 外泊する機会が増え、家によく帰るようになった。一度バレー部の先生と同級生の部員が家に来てくれたことがあったけれど、同級生はだれ一人として口を開かなかった。外見がすっかり変わり果ててしまった私に、どう声をかけたらいいのかわからなかったのだろう。先生と母の話を聞いているだけというのも、さびしく、悔しかったが、私はいつか同級生に堂々と会えるよう、その思いをリハビリに向けることにした。

 当時の私は、手を一センチ持ち上げるのも大変な苦労で、作業療法の手を動かす訓練や、特殊な機械に吊るした手でタイプを打つ練習は、とても生活と結びつくようになるとは思えなかった。言語・聴覚の訓練は、畳に寝て、声を出すと動くしかけのおもちゃの汽車を走らせるだけ。理学療法では、軽い屈伸の他、立位ベッドに寝たり、うつぶせになったり。病棟訓練では、肺活量を増やすための太い笛のようなものを吹く。訓練そのものは、痛かったり、ゆううつになることが多かったが、訓練室にいれば付添いさんと離れることができたし、訓練の先生や、一緒に訓練している子どもたちのおしゃべりを聞いていられたので好きだった。

 軽度の脳性麻痺をもったKさんは同い年だった。学校ではクラスが違ったけれど、病棟ではいつもそばにいてくれ、車椅子を押したり私の言葉を聞いて、代弁してくれていた。また、付添いさんと衝突した時には助け船を出してくれたり、そらで私の言葉を聞いておしゃべりをしてくれたので私も何とか日々の生活に耐えることができた。でも、それはKさん以外の人とはうまくコミュニケーションがとれない環境だった。高性能の医療機器が開発され、医療技術もどんどん進歩しているのに、どうして福祉を取り巻く環境の進歩の速度はこんなにも遅いのか。社会に対する思いはあふれても、時々来る両親にしか、それを聞いてもらうことができなかった。最も切ないころだった。

 しかし周囲には、日に日に身体機能が衰えていくのに、必死で残る命を生きている人もいる。私のこのつらさも、今しか味わえない貴重な体験だと思うしかなかった。

 学校で春の遠足に行った。この時初めてリフト付きバスに乗った私は、いつか日本のいたる所をこのようなバスが走るようになり、車椅子の人も外出しやすくなる日がくるように——と願った。

病院を変える

 私のコミュニケーションを楽にするため「コミュニケーション機器」を作ろうという話が主治医からあった。飛びつきたいような話だったが、その構想を現実のものにするのは難しかったので、私のS園での生活は約四か月半で終わることになった。六月末のことであった。

 次に私は、新しい治療を目的にT病院に転院した。一日のほとんどをベッド上で過ごし、付添いさんと二人きりの生活となったが、治療の効果で、能面のような顔に心もち表情が出るようになったため、コミュニケーションがとりやすくなり、S園のときほど頻繁に付添いさんが替わることはなかった。

 病棟ではほとんどだれからも声をかけてもらえない状態だったので、私は一日に二回、ストレッチャーに乗って注射を受けにいくのを、何よりも楽しみにしていた。看護婦さんや先生は、治療中の私のそばを通るたびに、ニコニコして話しかけてくれたからだ。

 毎日があまり暇なので、理学療法、作業療法、言語・聴覚療法の訓練を始めた。理学療法、作業療法は以前と変わらない訓練内容だった。理学療法室に電動車椅子があったので、理学療法の先生に視線を送って「あれに乗りたい」と訴えかけたこともあったが、実際に乗る練習を始めようということにはならなかった。

 そのころ、かつての同級生から手紙がきた。返事を書きたいと思った私は、「割箸をくわえれば打てる気がする」と言って、作業療法士さんに仮名タイプを打たせてもらった。でも当時の私は、まだ上の歯と下の歯を合わせるのがやっとの状態だったので、すぐに箸を落としたり、よだれが箸を伝ってタイプライターについてしまったりと、なかなか作業が進まなかった。何とか手紙の出だしが書けたので、続きを書くのを楽しみにしていたところ、その手紙は両親によって「娘が書きました」と医師に見せるためにもっていかれてしまった。私は、それまでの自分が、周囲の医師や看護婦さんに「失語症の子」と思われていたことを知ってショックを受けた。どうりで言語・聴覚の訓練ではいつも、いくつかの絵カードを見せられ、「これは○○ですか、△△ですか」などと聞かれていたわけだ。

 担ぎ込まれてきた患者の命を救急医療で救っても、患者や介護する家族には、それが終わりではない。すべてはその後の環境にかかっている。当事者になって初めて、その環境の質の低さ、それを支える人手のなさを感じずにはいられなかった。

 その後、看護実習で私に看護学生がついた。婦長さんや母からの説明で、その学生さんは私とのコミュニケーションのとり方を覚え、私に問いかけては、私の答えを聞いてくれた。そして外見からは私のことを「意思も思考力もない子」と思っていた別の看護学生に、そうではないことを説明してくれた、よき理解者だった。

 二人で病院内を散歩していた時だった。急を要する腹痛を覚え、通りがかりの看護婦さんの手を借りて、私は近くのトイレに入った。けれども固い便だったので、途中で肛門が切れてしまった。それに気づいた学生さんが摘便してくれたが、このことをきっかけに私は、「できない」からすべてのことを「してもらう」ことで「妥協」している受動的な自分に気づき、このままでいいのだろうか——と考えるようになった。

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