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歩く重要性

 最近は音楽を聴きながら通学するのにハマっている。ビートに乗りながら、歌詞に耳を傾けながら、時に自分で口ずさみながら自転車を漕ぐのは心地いい。けれども、それがいいことばかりではない。

 ワールドカップの興奮冷めやらぬまま学校に向かい、僕は寝不足の中筋トレの疲労と卒論のストレスで限界だった。夜7時、このまま帰りの14kmをイヤホンで音楽を聴きながらチャリで帰るのは危険だと判断した僕は久々に音楽を聞かずに家に帰ることにした。

 夜だし、寝不足だったからだろう。卒論に対する不安が溢れ出てきた。本当にこのテーマで書き終わるのか。書き終わらなかったらどうなるのか。就職が取り消されてしまったら僕に居場所はあるのか。そうなった自分は自分が作り出す周りからの目線に耐えることができるのか。

僕の部活の同期は僕の所属する大学が第一志望のやつの方が少ない。大体は失敗してここにきている。なんなら、一浪してここにきている奴もいた。大学の推薦が潰れてきた後輩や、プロの声がかからなかった奴、社会人チームのセレクションに落ちた奴もいた。そいつらはもちろん自分が思い描いた未来だったわけではないが、それでも人生を謳歌しているように見えた。その時々の現実に対して生きている奴らだった。

僕の不安はこの先の未来に対する期待の表れなんだと思う。そして周りに対する期待と恐怖なんだと思う。そして、そうならなかったとしても生きていくしかない。できることは、今現在を生きることのみで、過去や未来はどうやっても干渉できない。

こんな重い受験期みたいなテーマをチャリを漕ぎながら1時間、ずっと考えていた。実際答えは受験期にすでに出ていたものだった。

音楽を聞いていたらこんなことはなかった。考えずに済む。しかしながら、僕の場合、卒論に対する不安をなくす方法は卒論に対して向き合うしかない。もしくは学校辞めちゃうかね。

音楽というものは素晴らしい文化だし、それに勇気を与えられることも非常に多いと思う。けれども、それは現実と向き合う時間を無くしてしまうような気もする。まるで考え事をしたくない時の携帯ゲームのように。しかもそれ以上に無意識に向き合う時間を奪う。

それは運動にも言い換えられる。全力で走る爽快感は何にも変えがたい。出し切った後の気持ちよさ、息苦しさも含めてだ。けれども、出し切ったという気持ちを得たいがために運動してしまうことがある。現実から逃げ出すために、達成感のない、何もしなかった日の罪悪感を埋めるために必死に走り、息を切らし、疲労感で罪悪感や抱えている問題を覆い隠す。

別に悪いことではない。それで心の健康、もとい体の健康を得られこともある。けれども、それで問題が解決しない時、必要な摂取量はドラッグのように増えっていってしまう。

最近僕も帰り道のチャリを立ち漕ぎの全力疾走で帰ること多かった。

だからたまには焦る気持ちを抑え、座り漕ぎでゆっくり走る。そしてじっくりと考える。もちろん音楽抜きで。その時間が必要だ。

背中に乗っていた重く、僕を押しつぶしそうだった不安は振り返ってよく見て、よく味わってみると、無くなりはしないが、ひとまわり分小さくなっていた。

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