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私と祖母【エッセイ】

すみません、いつものショートショートの倍以上の長さになってしまいました(;´д`)トホホ…
しかも小説のような展開があるわけでもないので、面白くもないと思います💦なんか独りよがりだし‥。
もし、それでも読んで下さる方がいらっしゃれば、泣いて喜びます(ToT)


祖母が亡くなって数年が経った。
晩年は約10年ほど施設で過ごしたので、時々祖母のことを思い出すと、まだ施設で暮らしているかのような思いになる。そして、ああ、もういないんだった、と思い直す。

私の幼い頃、祖母は私や弟、私の友人を連れて、川へ遊びに行ってくれたそうだ(母がそう言っていたので、そういえば‥と思い出した)。生命保険の外交員をやっていたので、集金ついでに愛車のサニーで(四十代に乗り始めてから免許返納するまでずっとサニーだった)ドライブへ連れて行ってくれることもあった。
しかし、私が中学生になる頃には、祖母の人を苛つかせるようなところが気になって、よくケンカになった。卒業式に泣きながら帰ってきたら「ヘヘーイ」と冷やかされたり(弟にはヒヒーンと聞こえたたと言う(笑))、冬の朝方寒さに目が覚め勉強していたら「こんな時間に何やっとるの」と怒られたり、何か熱中してやっていると「くくずりゃあすな」(根を詰めるなという意味らしい。人が根を詰めているのを見ると祖母が疲れた気分になるので嫌がった)と言われた。
思えば祖母は、小学生のガキ大将が、そのまま祖母になったような人だった。だから私が中学生になって祖母より成長してしまったから、それまでのように遊べなくなったのだと思っている。
その上姑としてもひどかったし、元来のわがままさや虚言癖もあったので、家族は手を焼き、他人は祖母を嫌った。祖母が施設に入ってからだと思うが、祖母の昔のお稽古仲間と母が話す機会があり「会いに行ってやって」と母が言うと「誰が行くかねそんなとこ!行きたくないわ」と吐き捨てられたそうである。祖母は調子のいいことを言っては嘘をつき、自分より弱い人(あくまで祖母の基準でのことである)のことはバカにすることがあったので、恐らくその人にそう言わせるほどのことをしたのだろうと思った。若い頃には会社で取っ組み合いのケンカをしていたし、施設に入ってからも、すっかりボケているのに「やかましい」という言葉を巧みに替え歌にして抗議するなんて嫌らしいところもあった。
そんな祖母ではあったが、私の成人式には百万の着物を買ってくれたり、ケンカばかりの仲なのに時々デパートへ二人でいって、ご飯を食べたりワンピースを買ってもらったりした。
旅行にも香港と台湾の2回一緒に行っている。香港のときは祖母の友人とその姪御さんの四人だったのでスムーズに回れたが(私は当時高校生だった)、台湾のときは大変だった。祖母が旅行代理店でとにかく安いツアーがいいと言ったのか(そういうことをする人だった)、日月潭(地震で被害を受けてしまったが復興されただろうか)というところからなんと二人きりで電車に乗ることになってしまった。あの頃はまだ大学生で、私は旅慣れていなかったし、その時行ったところは、英語も通じそうになかった。するとそんな私達の会話を聞いて、親切な現地の方が、降りる駅でお教えしましょうか、と声をかけてくださったのである。おかげで無事台北へ着くことができた(ホームまでガイドさんが来ていた)。次の日は故宮博物館へ見学に行った。あの有名な白菜はとても小さくて虫眼鏡で見た。祖母は博物館に全く興味を持てず(祖母の選んだツアーなのに)、博物館見学も早めに切り上げることになってしまった。夜は夜で、私達は毎晩ケンカしていた。ケンカの理由は忘れたが、大体祖母が苛だたせるようなことを言ってきては私が怒る、その繰り返しだった。今の私の記憶では、楽しい台湾旅行とすり替えられているが、当時は疲れるわ腹が立つわという状態でへとへとになって帰国したに違いない。

祖母が施設に入ってから、母とちょくちょく面会に行った。祖母は調子の良いときは私達のことがわかることもあった。施設の夏祭りの時、むこうから歩いてくる父を間違えずに見つけた時は、ああ、やっぱり親子なんだなと思った。
施設に入って10年くらいたった時、祖母は救急車で運ばれた。食べ物を喉に詰まらせ(この時の対応に私は疑問を持っているが、施設からは謝罪の言葉はない)取り除いたが誤嚥性肺炎を起こす可能性があり、そのまま入院した。
入院した祖母は、食事介助してもらってもなかなか食べることができなかった。胃ろう(お腹に穴を開けてそこから注射器などで食事を注入する)にするか、点滴で弱っていき、徐々に死を迎えるかを選択するように、両親は言われた。
母は悩んでいた。父は、わからない。というか父には実の親のことなのでさすがに聞けなかった。私は胃ろうをすすめた。けれど母は、胃ろうにして私達よりも長生きしたら、と漏らしていた。暗に自分たちが先立ったら私が見ることになると、気遣ってくれたのだろう。あと、もしかすると胃ろうだと施設に帰れなかったのかもしれない(施設によっては看護師がおらず医療行為が行えないところもある)。
結局祖母は、胃ろうを作らなかった。食事は食べなくなり、点滴だけになった。
そんな中、土地か家屋の名義が祖母のものになっていて、どうしても生前に変えなくてはならないという事態が起こった。本人が出向けないのだと言っても、郵便局はどうしても本人が必要だと言う。そこで私は急遽介護タクシーを呼んだ。急だったが外出許可をとり、病院の車椅子を借り、なんとか乗せて郵便局へ行った。
道すがら、昔私達が住んでいた場所も通ったので、ほら、鷺山だよ、とか、ここ覚えとる?とか話しながら行った。車に乗った祖母はやけにしゃきっとして、私をスタッフと間違えて、愛想よく応えていた。
おばあちゃん、覚えとる?と言って私はりんごの歌を歌った。私は真っ赤なりんごです。お国は寒い北の国。というあれだ。祖母はピンとこなかったようだけど、私は最後まで歌った。この歌は集金に行くときよく歌ってくれた曲だったから。
少しでも家に寄れたらいいねといいながら、結局そのまま病院へ帰ってきてしまった。
祖母が亡くなったのはそれから数日後である。
前の晩にいって確かめた状態では、今夜中はなんとか持ちそうな感じだった。だけど明日中は持たないだろう。お医者さんも看護師さんも何も言ってくれなかったけど(お医者さんはもうちょっと生きられると思っていたらしい)、それくらいまでしか生きられないことが、看護師としての経験から私には分かっていた。それを父や叔父に伝えるのが辛かった。だけど死に目に会えないのではないかと思い、結局はっきりと伝えた。
そして、その晩は乗り越えたが、医者がいらぬ検査を受けさせ(だってもうすぐ死んでしまうような状態なのに)、検査から帰ってすぐ亡くなった。
亡くなってすぐ思ったのは、ああ、あのお出かけが最後になってしまったんだなあということだった。だったらやっぱり家に寄っておくべきだったのにと思った。けれどあのとき心のどこかで、祖母はもう二度と病院から生きて出ることはないだろうと思っていた。

葬式は家族葬で行った。
父方母方の両家の親戚、弟たちまで集まって、私は嬉しかった。大団円が好きなのだ。
大往生だし、特別いい人でもなかったし、泣くような人は誰もいなかった。
私は受付をやっていて忙しかったし、そもそも泣くこともないだろうと思っていた。
出棺の時がきた。他に誰も泣いていない。私だけが泣いていた。他に誰も泣いていないし、大往生だし、喧嘩したり嫌な思い出がいっぱいあったし、自分だけだし、まるでその場の雰囲気で泣いているようで、なんだか恥ずかしかった。

今日、ふとこの手記を書くことになったのは、母の言葉のおかげである。
私も大概理不尽なことはされたが、母は祖母からもっとひどいことをされていた。
同じ会社で母が支部長になったら「引き摺り下ろしてやる」と言われたこと。パートから帰宅すると「あんた、どっかでお茶飲んできたやろ」と言われたこと。何時間もつまらないことで説教され続け、ストレスから悪性リンパ腫になってしまったこと。そのほかにも数え切れないくらい沢山あるだろう。
しかしそんな母が今日言っていた。「まあ、おばあちゃんのお古のズボン履いてるくらいだし、本当に恨んどったら全部捨てるらしいし。なんか憎めんかったんやわ」
それを聞いて、私はこの記事を書くことにした。
そして書いているうちに色んなことが思い出されて涙が止まらなくなった。祖母は意地悪で口が悪くて変人だったけど、祖母のできる範囲ではかわいがってくれたんだなあと思った。
だからお葬式のとき私は泣いたんだなあと思った。
中学の時、腹が立って家を出ようと思わされたくらいだが、それでも祖母はかけがえのない、代わりのきかない存在だということを、亡くなって初めて気付いた。
私は真っ赤なりんごです。お国は寒い北の国。この歌を口ずさむと、しばらくは涙が出てきそうだ。


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先週から確定申告や就活に追われて、今週の小説落としました💦 代わりにこのエッセイを上げました☺ゴメンナサイm(_ _)m


Rikako様より写真お借りいたしました。


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