さまざまに語る異常達についてー『異常論文』(樋口恭介編、早川書房)

異常論文とは短編集である。以下、その中のいくつかについて感想を述べる。

決定論的自由意志利用改変攻撃について 円城塔
平易な日本語なのに表現しようとしている当の現象が複雑で、結果的によく分からないという事が彼の作品ではよく起こる。彼の近年の大作であるエピローグの描写が好例だろう。
しかし本作ではいつものように複雑な状況が、理系の論文のように記号を用いて整理されているのでとても理解がしやすい。過去の彼の作品の複雑な状況も、記号で書き直してみてほしいと願うほどである。
本書で最も軽やかに異常論文である作品と言えるだろう。


世界の真理を表す五枚のスライドとその解説、および注釈 草野原々
スライドに大量の注釈がついているという作品である。
本文のみを読んでもよく分からないが、注釈を丹念に読んでいくことで真理の全体像が掴める。ぶっちゃけ最初は面倒だったが、読み終わる頃にはこの読書体験が好きになってしまっていた。RPGなど少しずつ成長していくのが好きなら楽しめるだろう。


火星環境下における宗教性原虫の適応と分布 柴田勝家
文化的に継承されていく情報がミームと名指されて久しく、ミームという言葉自体が既にミームとなっている。宗教もまたその一部であると普通は考えられるが、じつは実際の虫によって引き起こされるものである、という作品。
虫や神やラテン語など、もっともロマンにあふれた異常論文である。


ベケット講解 保坂和志
我々の言語と異なるレベルの認識は我々の言語では表現しにくいという仮説を中心に、ベケットの文体の難しさについて論じている。ベケット以外にも、進化や神の言葉を聞いたシスターや演奏者の事例にも触れられていて主張の広がりもありつつ、かつベケットの文体も楽しめる。


樋口一葉の多声的エクリチュール 倉数茂
樋口一葉の文体に幽霊性を見いだすという作品。
論文としての完成度が高く、異常論文というよりも、めちゃくちゃ面白い論文といった方がふさわしいだろう。

ザムザの翅 大滝瓶太

異常論文というジャンルの論文であるが小説でもあるという特異な特徴を、最も見事に描いている。具体的に言うと、小説的な記述が論を構成する方法として扱われている。その点で本作は、ジャンルとしての異常論文を体現した作品であると言えるだろう。ゲーデルの不完全性定理や後期クイーン的問題などに興味を持っているなら、かなり面白く読めるだろう。


オルガンのこと 青山新
肛門に異物を挿入するシーンから始まるのでギャグ小説と誤認してしまったが、じつはミクロコスモスとマクロコスモスの照応と繋がっていたりと壮大であり、かつ読後感は青春小説のように爽やかである。もっともエンタテインメントな異常論文である。

場所(spaces) 笠井康平・樋口恭介
可能性=未来=私というテーマを、正体不明のmdファイルの解釈性を中心として語る作品である。とはいえそのような本作のニュアンスは、作者による巻頭言からも十分に読み取れるものであり、正直少し退屈とも思われた。しかし、途中で挟まれるあるコミックリリーフ(ある哲学者のツイッターbotに対するある発言)がかなり笑えるものであり、それが笑えると言うこと自体がパフォーマティブに未来の良さを感じさせた。その意味で、本作はもっとも未来を肯定する異常論文と言えるだろう。


無断と土 鈴木一平・山本浩貴
詩をモチーフとしたホラーゲームを主題とした論文である。
恐怖が世界に対する身体の構成の失敗=可能世界の構成(フロイトの不気味なものの議論に近い)によるものという主張のもとに、ホラーゲームが分析されている。
その分析のディテールの精緻さもさることながら、詩の美しさが素晴らしい。この詩のために本書を読んでも損はない。
可能世界を扱う、論文としての形式を守っているという手際から見て、樋口からの課題としての異常論文を最も高いレベルで成し遂げた作品といえるだろう。


解説ー最後のレナディアン語通訳 伴名練
抽象的でともすれば退屈になりがちな言語に関するテーマを、その思弁性を落とすことなく女児誘拐というショッキングな事件を通して描いている。
また、複数の作品を連続して語るというスタイルは、スタニスワフ・レムの完全な真空などが好きな人はたまらないだろう。しかも本作の場合その形式自体が意味を持っている。
最もスリリングな異常論文である。

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