立つもの立たせぬもの
「え? 分裂騒動ですか?」
写真家団体のメンバーが写真の使用に関してのことで次々と脱退し、幹部クラスの人間も出ていて男性主催者は、まるで悪人のように言われていると言う。
主催者から問題が起こっていることを告げられた時、作家は腹立たしく思った。
「お似合いじゃないですか」
主催者は傷ついたのだろう。一瞬の沈黙の後「君、そんなこと言うもんじゃないよ」とムッとしたが、この事件は心底胸に刻みつけておいた方がいいと作家は思っていた。
そもそも作家は主催者から団体メンバーが撮った写真から想起される文章を書いてくれと頼まれただけなので主催者側の様子はわからない。
だがピンときた。
(話を通さなかったな?)
いつも揉めるのは、使用前に計画の見通しを納得してもらうことを怠る事、使用後どうするのかの取り決め、最終的にどうなるかへの道筋が曖昧な時だと相場が決まっている。
例えば最初は利益が絡んでいなかったとしても万が一利益が発生した場合はどのように配分するのか。「使用」と言っても、どの範囲までの使用を想定しているのか。
特に「もしかしたらこいつは自分の作品を勝手に使って利益を上げようとしているのではないか」と勘ぐられたら、もう言葉だけで払拭するのは難しく、現金や契約書の実務の話でしか筋を通せない。
「物を作る」
それが写真であろうと「自分の作品」であるという意識が強い。
言い換えれば「自分の肌」だと言った方が感覚的には近いだろう。
普通の付き合いでも滅多なことでは人の肌に馴れ馴れしく触れるということはない。
だからこそ写真家を含む芸術家と使用者側での感覚の違いが揉め事を起こす。
特にテレビマンのように「もっと宣伝したほうが有名になるし、タダで宣伝してあげるから使わせてもらいたい」という話なら、十中八九怒る。
恐らく、それと似たような話をしたのではないか、と作家は勘ぐった。
主催者と話し終わった後、作家はもんもんと考え込んでいた。
ここで介入すると自分の企画でもないからおかしなことになるし、主催者を差し置くとメンツを潰すことになるし、何よりもプロジェクトの大義名分を全て奪い去ることになる。
辛かろうが頓挫しようが、もはや信義を貫くには、やり通すしか道は残っていない。
何よりも完遂させないことには人を巻き込んでいるだけに止めた時点で信用を失う。大風呂敷を広げ結局計画性のなさで出来ず仕舞いで次のプロジェクトすらチャンスをもらえなかった例をごまんと知っているし作家自身も痛感したことがある。
大事な事はいつだって、気配り、根回し、思いやりの三つを大事な柱としながら、特に芸術家タイプの人間を口説くのなら、「肌に触れてもいいほどの信頼関係を築く」ことが重要になる。特にプロデュース業となると確実な資金源と人脈が底力となる。
上から大義を押し付けるだけでは人はついてこない。
作家は太宰治の写真のように物憂げに頬杖をつきながらパソコンの画面の前で考え事をしていた。
作家自身のやるべきことは決まっている。
義は通す。
義を通した後、一体どうなるのか。
「いや……」
作家は首を振った。
義を通した後、信が問われるのは自分ではない、と思った。
常に義を受けた側の問題になる。
「男を立てるとは、なかなか難しいものだな……」
気難しい男に尽くす健気な女の気持ちにすら思いをめぐらせていた。
男のものを立たせるなら女手があれば充分かもしれないが、身を立たせ、男を立たせ、顔を立たせ、とにかく世の中を生きるには立たせなければならないものが沢山ある。
目くじら、青筋、目に角など立てようものなら人はいなくなる。
立たせるものを立たせ、立たせないものは引っ込める。
「立たせたり立たせなかったり、男の道は大変だ」
作家は大きく息を吐いて原稿を書くためにキーボードを打ち出した。
参考写真:GMTfoto @KitaQ
http://kitaq-gmtfoto.blogspot.jp/2017/01/from_18.html