モノクロの色彩

モノクロの色彩

 中瀬が病室に姿を現すと付き添っていた母親は瞳を潤ませた。
 六年ほど、ろくに実家と連絡を取っていなかっただけに、母親も帰ってくるとは思わず少し驚いたように目を見開いたがベッドに眠る父親に目をやる。
「容態」
 母親への言葉は、あまりにもぶっきらぼうだった。
「父ちゃん、医者嫌いだろ? だからずっと体痛いの黙ってたんだよ。大腸ガンが体中に転移していて脳にまで転移してるって。もう手の施しようがないって。あんた、最後だと思って、父ちゃんに何か言うことないかい?」
 中瀬は眠る父親の隣の棚にボールペンで真っ黒に描きあげた絵を飾った。工場から出ている煙を描いていて、一見おどろおどろしいが煙や工場が歪んでいて人の形のようにも、猫か馬か魚か、何かの形のようにも見える。
 ずっと否定し続けてきた母親も黙って瞳を潤ませている。
 中瀬は母親の言葉が気になった。次に口を開く時には、差し出した絵のことを否定しだすのではないかと身構えていたが「来てくれてありがとう」と柔らかな口調が中瀬の緊張を氷解させた。
 だが中瀬の「憑き物」が、それで落ちたわけではなかった。
 絵を描くだけで、「無駄だ」「辞めろ」「もっといい絵を描け」など一度として褒められた事がなかった人生。
 前の職場も上司が絵へ茶々を入れたために激昂して辞めたばかりだ。
 椅子に座って前のめりなせいなのか、丸くなったと感じる母の背が寂しく思えた。
 ほどなくして父親は一度も目覚めることなく息を引き取った。母親が延命治療を拒んだためだった。
 通夜の日、母親は父親の遺影の横に中瀬の絵を飾った。火葬の際に一緒に燃やして届けてあげたいとも伝えられた。
 その絵を参列者の男の老人が熱心に見ている。むしろ父親の死を悲しむよりも前に絵そのものにのめり込んでいて一人だけ近寄りがたい雰囲気を出している。
 十分ほど眺めてから母親と話している。離れた場所から眺めていた中瀬のところに老人が来ると、「ああ、君が多美恵さんのお孫さんかい。あの絵は君が描いたのだろう? いやいや、見事なものだ。第二の平野遼と言っていただけはある。多美恵さんが自慢していた通りだね」
 話を聞くと生前の祖母から随分と自慢話をされており、その時は中瀬も年が若かったことから、将来が楽しみだとしか伝えていなかった。祖母が亡くなり、一時忘れてはいたが、絵を見てわかった。大きくなっても描き続けていたとは嬉しい限りだ、と笑顔だった。
「うむ。しかしまだ君の絵には君しかいないな」
「どういうことですか?」
 中瀬が「また頭ごなしに否定されるのか」と身構えると、
「世界の価値を決めるのは、いつでも君だ。でもね、君の価値を決めるのは、実は君以外の人なのだよ。真の芸術は調和だからね。矛盾があっては届かない」
 矛盾。
 何かを否定しながら乞うている姿勢を言っているのか。愛を欲していながら憎んでいるとでも言うのだろうか。いいや、きっと受け入れていない全てのことに対しての姿勢が絵に出ているのだと言いたいのだろう、と中瀬はうっすらと理解した。
 ただ人の心は一筋縄ではいかない。自分の心でさえどうにもならないのに、どうやって他人と調和しろと言うのだろう。
 その日から四年、一心不乱に絵を描き続けた。書を買い学び、絵を数多く見に行き、描きまくった。悔しい気持ちが焦燥感となって中瀬を突き動かした。
 人の言葉を気にする暇などなかった。描いても描いても納得がいかない。下手でみすぼらしくて、様にならない。ヘドロのようにべったりと染み込んだものが取れることがない。むしろ怒りで狂ってしまいそうなほどだった。葛藤と憤りと悲しみ。怨念めいた自分への気持ちが絵に表れた。
「納得のいく絵が出来たら、ぜひ持ってきてください」
 老人の名刺を頼りに水彩色鉛筆で描いた重厚な絵を見せに行くと
「あの日のモノクロが色味を帯びてきたか。どこか吹っ切れたようだね」
 嬉しそうな老人の子供のように輝く瞳を見ていると、心の真ん中が締め付けられるように感動してくる。中瀬は潤される心を感じると共に、心のわだかまりが少しだけ取れた気がした。
 二年後、中瀬は日本水彩画会賞を取る。画商の老人が亡くなるのは、受賞の二ヵ月後だった。
 結局中瀬という画家が誕生したのは祖母が伝え、両親が感性を育み、老人が世に送り出した形になった。中瀬の絵は中瀬にしか描けない。
「人間の苦悩とは」
 中瀬の生涯のテーマを育んだのは間違いなく両親だった。
 受賞の翌日に中瀬は父親の墓前で花を手向けた。
「ただ、安らかに」
 心の中で思った父親への言葉は、自らへの言葉でもあると気がつくと、帰りに工場地帯を見たくなった。
 軍艦防波堤から見える工場の煙突から煙が伸びている。今見える景色は色を帯びている。
 堤防を作る際にコンクリートブロックを釣り上げた錆びたチェーンが灰色の知恵の輪のように見えた。
 いつか色彩を帯びて解ける日も来るだろうと、漠然と胸をよぎった言葉は、自作へのマグマとなって渦巻きだしている。
 

参考写真:GMTfoto @KitaQ
http://kitaq-gmtfoto.blogspot.jp/2017/05/blog-post_11.html


あたたかなお気持ちに、いつも痛み入ります。本当にありがとうございます。