感情の編集

感情の編集

「いやー、先生。さすがですよ。北九州でサイバーパンクだなんて思いもつきませんでしたよ。でもなー、いえね、いいんですけどね、今回の主人公は少し思想的に弱いというか、これじゃあそこらへんにいる若者みたいで薄っぺらい感じなので、もっと社会や国家と個人との戦い、みたいなところまで書いたら作品の厚みもぐっと出ると思うんですよ。あ、それでですね。次回の原稿の締め切りは二週間後の十七日なんですけど間に合いますでしょうか。あっ! そうですか。さすが先生です。次の原稿も期待して待ってますね」

 四十一歳になった掛川は内心面白くはなかった。自分にもし日の目が当たれば、こんな男に頭を下げ、ご機嫌をとりながら仕事をしなくともよいのにと奥歯を噛み締める思いで編集者をしていた。

 自分だったらもっとこうするのに、と長年思い続け小説には目を通してきた。

 少年から今に到るまで数千冊の本を読み、文学賞にも隠れて何度も応募しているが、どうにも引っかからない。最終選考まで一度残ったことはあるが受賞までは行かず、しかもその時受賞した作家は次の一冊を出したっきりで、十年以上も書いていない。そのことが今でも腹立たしく、時折思い出しては酒の席で「俺を選んだら、ずっと書き続けていたのに。馬鹿な審査員どもだ」と悪酔いすることもあった。

「お前さ、持ってくるのはいいんだけど、小説だろ? お前のはポエムなんだよ。小説じゃねぇ。きちんと文章書けるようになれよ。こんなので小説家になろうとかさ、もう少し小説沢山読んで、文章もちゃんと勉強して、それからだよ」

「あー、人物が書けてない。状況描写もぼけていて、どういう場所だかわからないし、何よりも、作品が何を訴えたいのかまったくわからないね。自分の悲しみを訴えたいの? まだ絶望してないよ、こんなの」

 時折送られてくる素人原稿を真っ向から貶し、最新刊を買っては「最近の小説は本当に薄っぺらくなったわ。こんなのが売れてるんだからさ、読む人間の質が落ちたんじゃないの?」とよく愚痴るほどだ。

 しかし内心は掛川も複雑だった。掛川が選考落ちした小説はネット上に無料で公開している。感想はつかず観覧数も伸びない。

――誰も俺の才能を理解してくれないんだ。なんて、運の悪い人生だ。

 ある日、ほとんどヤケで思いの丈を目一杯書いた。自分のことをコミカルに、まるで喜劇のように、道化に徹するつもりで。

 道化を入れたのは最後の抵抗だった。「自分さえ訴えかければいいなんてのは文学じゃない」とどこぞの誰かに言った自らの言葉がプライドとなって現れたからだ。

 もう、賞に送るつもりはなかった。ただいつものように墓標代わりにネット上にアップロードした。

 観覧数はいつものように伸びなかったが、感想を初めてもらい、掛川は食い入るように読んだ。

「いつもは難しくて物語があまり頭に入ってこなかったんですけど、これはすらすらと読むことが出来ました。画家のとある絵を思い出しました。ピエロの仮面を少しだけ取ると、仮面の面白い顔とは違って悲しみや厳しさを湛えた複雑な顔が潜んでいる絵。人を笑わせようとしても、心の中は必ずしもそうじゃない。そんな笑いとの裏腹さが滲んでくるようで感動しました」

 掛川は何度も読み返した。ずっと読んでくれていた人がいたのだ。何十回も読み返していると、涙が流れてきた。もう「感想はもらえて当たり前」という気分は消え、ただ「ありがとう」と自然と口にすることができた。

 それからは憑き物が取れたように、人をよく褒めるようになった。

「先生! 今回出てきた女の子。自我の芽生えみたいなシーンがよく書けてましたよー。感情が芽生えて初めて悲しみや苦しみについて考える。感情があることによる喪失と獲得のジレンマ。切なかったですよー。次回もよろしくお願いします!」

 掛川は自らもよく感じるほど活き活きとしたものが湧き上がってきていることを嬉しく感じていた。

 それは人に対する優しさの芽生えだったのかもしれない。


参考写真:GMTfoto @KitaQ

http://kitaq-gmtfoto.blogspot.jp/2017/02/blog-post_11.html

あたたかなお気持ちに、いつも痛み入ります。本当にありがとうございます。