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雑考:宗教

宗教とはファンクラブだ。
キリスト教はイエスのファンクラブ。
イスラム教はムハンマドのファンクラブ。
仏教はブッダのファンクラブ。

日本ではよく、特定のアーティストやグループの熱狂的なファンを「信者」といって揶揄したりするが、言い得て妙だ。
「皆で同じ神を信じて、皆で同じ教えに従う」
そういう意味で、一般的な宗教と一般的なファンクラブに本質的な違いはない。

人類は、強大な群れを形成することで繁栄してきた。
直立二足歩行を始めて両手がフリーになり脳を増大させた引き換えに、鈍足になって身体能力が著しく低下した。
素手で一対一で対峙して人間が勝てる動物などほとんどいない。
そんな最弱フィジカルが生き抜くには、群れるしかなかった。
群れの中で知恵や技術や道具を共有し、農業を確立して巨大な社会を形成し、やがて生態系の頂点へと登りつめた。

今や何万何億という自然状態ではありえない個体数の集合体、すなわち「国」と呼ばれる単位の群れを形成して地球上に君臨している。
自然状態でほっといたらバラバラになるであろう巨大な群れを維持するには、不自然なトリックが必要になる。

そのトリックの最たるものが、宗教。
「皆で同じ神を信じて、皆で同じ教えに従う」
これによって群れは結束を固める。
古来より群れのリーダーは、こういった結束力を利用して統率してきた。

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三大一神教は、中東の砂漠地帯が発祥地。
過酷な砂漠地帯で生き抜くために、厳格な一神教によって結束力を強化した。
異教徒は好ましくない、ひとつのファンクラブでまとまる必要があった。
一方、温暖湿潤なアジアでは、異なるファンクラブ同士でも混じり合えるようなゆるい多神教のままでも食うに困ることはなかった。
宗教は地理と気候の産物、その風土に適応したものが他を排除して生き抜いてきた。

日本は、神道と仏教のミクスチャーの歴史を歩んできた。
ペリー来航を契機に、外国勢力の脅威からナショナリズムが高まり、仏教を排除して天皇を神とするある意味一神教ともいえる国家神道で結束し、世界大戦へと向かっていった。
敗戦した日本は、戦勝国によって二度と戦争できないような国に解体された。
強力なファンクラブの結成は、再び戦勝国に牙をむき戦争へと駆り立てる危険性がある。
そこで神道教育を廃止し、信教の自由を認めて他の宗教も取り入れ、信仰心をぼかすことで、戦勝国は日本という敗戦国をうまいこと手懐けた。

また、宗教はビジネスでもある。
ファンクラブを運営するには金がかかる。
技術美術芸術を集大成させた建築物や偶像で人々を引き寄せ、グッズを販売したり年会費を徴収したり、あの手この手で集金することでより巨大化していく。

しかし世界全体が物理的に恵まれ平和に豊かになっていくにしたがってか、従来の宗教の必要性が弱まり、求心力を失いつつある兆候があるように思える。

ヨーロッパといえばキリスト教、特にカトリック圏の街では荘厳なカテドラルや教会が絶対的権威の象徴として迫ってくるが、実際に出会う若者に宗教について聞いてみると、「自分は無宗教だよ」とか「特に神は信じてないね」と答える人が多いことに驚かされる。
イスラム圏でも地域によっては、ラマダンの時期に飲み食いしていたり、「酒も飲むし豚肉も食うよ」という人に出会うこともそうめずらしくない。
ユダヤ人に出会ってユダヤ教について聞いてみると、「一応教えには大まかに従ってるけど、個人的にはそこまで信心深くないからそんなこと聞かれてもね」と言われ肩透かしを食らったりもする。

国をまとめるために利用されてきた宗教だが、現代においては国そのものが宗教になっているのかもしれない。
国家という意味ではない、たとえば日本人だったら日本に対する愛国心。
愛国心という言葉にもアレルギー反応を起こす人が多いようだが、たとえばオリンピックやワールドカップなどで、無条件に自分の国のチームや選手を応援するのは愛国心に他ならない。
自分の知人が出場しているというのならまだしも、見も知らぬ赤の他人が試合をしている、ただそれが自分と同じ国の人というだけで熱狂的に応援するというのは、無意識に「日本」というひとつのファンクラブに属しているからなのだろう。

必ずしも従来の神を信じるような宗教でなくてもいい。
従来のファンクラブが不要になれば、別の何かを新たに結成する。
特に今後は、聞けば何でも教えてくれる万能のAIが神となるような未来も想像できる。
強い結束が不要な時代になったとしても、人間は共通の虚構を信じて群れるようプログラムされており、それなしには存続しえない生き物なのかもしれない。

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