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雑考 : 肌の色

アフリカではその広範囲で僕は「白」と呼ばれる。

たとえばマラウイでは、村が近づいてくると何十という子供たちが湧いてきて、大興奮状態で「アッズングー! アッズングー!」と僕に向かって大声で叫び、村中が騒然となる。
「アッズングーってどういう意味?」と聞くと、答えは「ホワイト」。
村を通り過ぎた後も、僕の姿が見えなくなるまでかれらは「アッズングー! アッズングー!」と叫び続ける。
一日何百回もだから、いつまでもこの言葉は忘れず記憶に残っている。

また旧ポルトガル植民地のギニアビサウでは、村が近づいてくるとやはり子供たちが大興奮して「ブランコ! ブランコ!」の大合唱。
「ブランコ」はポルトガル語で、意味はもちろん「ホワイト」。
まるで僕の名前が「ブランコ」であるかのように呼ばれ、これも一日何百回と続く。

国が変われば言葉が変わり、その土地その土地で「白」を意味する言葉で呼ばれ続ける。

日本では子供の頃、外国人を見かけて「ガイジン!」と指をさしたりすると大人からおこられた。
こういった言動はいけないことだと学び、全世界共通の普遍的な倫理であるかのように仕込まれてきた。

しかし、外国人などまず来ないような原始農村社会でそんな教育がされているわけがない。
黒であることが当たり前で黒以外なんて見たことない、そんな人たちの前にある日突如、黒くない異邦人が荷物満載の自転車に乗って現れたりしたら、そりゃ興奮状態になる。

逆に、もしアフリカ以外の土地で非黒人が黒人を指さして「ブラック!」とか「ニグロ!」とか言ったりしたらとんでもないことになる、そんな外部世界のモラルなどかれらは知る由もない。
こういった言動を我々は差別と呼ぶが、差別という概念も最近発明された先進的なもの。

「中国人」と呼ばれることも多い。
アフリカのみならず世界の広範囲で「チノ」、「チナ」、「チャイナ」、「シノワ」、「キタイ」、いずれも「中国人」を意味する言葉で呼ばれる。
そして「チンチャンチョン」攻撃。
「チンチョンチンチョン」と言って、中国語のモノマネをしているわけだ。
いい年齢した大の男がわざわざ僕の近くまで寄ってきて「チンチャンチョン!」と叫んだり、若い女子なんかも少し離れたところから「チンチョーン!」と呼びかけてきたりする。

パキスタンやミャンマーなどの旧イギリス植民地では、「アングレー」とか「イングレー」と呼ばれることもある。
これは「イングリッシュ」の語形変化、かれらにとって外国人はすなわちイギリス人を意味する。

ラテンアメリカの山奥では、「グリンゴ」と呼ばれることもある。
「グリンゴ」はもともとスペイン語でギリシャ人に対する蔑称で、転じて「よそ者」という意味合いがあるとか。

アラブ圏では、言葉ではなく石投げ文化の洗礼を受けることになる。
少年たちは僕の姿を見るや、少し離れたところからガンガン石を投げてくる。
時にはこぶし大の石が降ってくることもあり、頭に当たったりしたらガチで死ぬ。
石投げだけでなく、バイクで追跡してきてちょっかいを出されることも日常茶飯事。

こういったエキセントリックな歓迎(?)は、突如現れた異邦人に対するきわめて原始的なリアクションだと解釈できる。
たとえばイヌは、縄張り内によそ者が現れると興奮してギャンギャン吠えながら追いかける、そういった動物的反射行為。
石を投げるのは少年のみ、十代の男子なんて半分動物みたいなもんだ。

一方、世界最先端のアメリカでは、人種や肌の色に対しては過剰なほどセンシティブだ。
海外走行を始めてまだ間もない頃、とある裕福な白人の邸宅でお世話になった。
僕が何気なく、「今日スラム街を通ってきたんだけど、黒人ばかりなんだね、かれら本当に貧しいんだね」と話してみたら、その場にいた家族の表情がピクッとなり、「えっ、そこ触れちゃう?」みたいな若干凍りつく空気になった。
日本人同士では、白人とか黒人といった言葉をふつうに使うが、ここでは人間を肌の色で呼ぶことさえ御法度な空気がある。
英語には「color-blind」という言葉があるように、レイシストでないのなら肌の色に対しては盲目でなければならない。
これが、人種差別と向き合う歴史を歩んできたアメリカだ。

先進的な社会では腫れ物のように扱われる黒人、言葉ひとつにも慎重にならなければいけない。
かと思えば、その黒人の故郷であるアフリカでは無邪気に「白! 白! 白!」の大合唱。
なんと皮肉で滑稽なこの世界。

アジア人差別というワードも、最近つくられた新しい概念。
そういった言葉が生み出されるとあたかもそういったものが実在しているかのようにみなされる。
僕を見て「白」とか「チャイナ」とか呼びかけてくる人たち、そして石を投げてくる少年たちも、それはたとえば動物園にいるめずらしい動物に振り向いてほしくて呼びかけているのと変わりない。
もっとひどい中傷であれ攻撃であれ、かれらはそういう世界観で生きているだけで、かれらの中には差別なんて概念は存在しない。
我々がそれを差別と呼びたくなるのは、我々の側にたまたまそういう語彙があるというだけのこと。

人間はどうしたって、肌の色を見るのだ。
根源的なものがあらわになるアフリカで、それをまざまざと見せつけられた。
高等な教育を受けて理性的にふるまっても、根源的には人間は皆レイシストだ。
そこを否定したり目を背けたりするのではなく、はっきりと認めるところから始めてみよう。
人間は皆同じとも言えるし、皆違うとも言える、その確認作業をずっと続けるのだと思う。

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