実家ニート、独居フリーターになる
昼休みにゆっくりコーヒーをドリップすることで、なんとか正気を保てている。うつろな目でデスクトップの前に腰を下ろし、コーヒーをすすりながら、この日記をフリックしている。職場のフロアには、いつもくだらないラジオが流れる。フレンチポップかアンビエントトランス、もしくはえげつない下ネタの深夜ラジオが聴きたい。
労働は、本当に辛い。辛さの根源について毎日考えているけど、やっぱり、自分の能力不足と社会適性のなさをーーオタクの誇張ではなく本当にーー毎分毎秒、痛感するからだろう。毎日、コミュニケーションを間違えている。毎日、苦笑されている気がする。能が、ない。仕事ができない。要領が悪い。気が付かない。勘が悪い。ここら辺を形容するすべての単語に当てはまる自信がある。世にもめずらしい、歩いて呼吸を行う気の利かな事典だ。あなたの本棚に、安置されたい。
引っ越してきて早速、3日でバイトを辞めた。飲食勤務によってモンスターのような人格になってしまったのだろう、今の時代たいへん生きづらそうな、いつか告発されて大変な目に遭うんじゃないか心配になってしまうような店長と関わり、心が折れちゃった。雑魚です。
本当に心の琴線らしきものが、脆弱だ。終わっている。ここ数年、パワハラやセクハラの定着化に伴って、インターネット等で揶揄の対象になりがちな繊細ヤクザとは、私のことだ。そのくせ文才とか画力とか、そういう、繊細な人が得意がちな能力に秀でているわけでもない。ただ扱いづらいだけ。
そんなやつが忙しそうな飲食のホールに応募するなよ、は、本当にその通りだ。店長も大変だ、ちょっと厳しくしただけでパワハラだなんだとバイトがバックレる。そこは、本当に、同情する。反省もしている。ごめん。
繊細お気持ちヤクザは飲食店以外のあらゆる場所でも健在だ。友人関係だとそうでもないのに、どうも、職場というものと相性が悪いらしい、この性格は。いまアルバイトを始めて1ヶ月めの、アンティーク時計通販サイト掲載の写真を撮影する職務でも絶好調(絶不調)。毎日、あらゆる人の視線に私の無能を責める鋭さを見い出し、全身血まみれになっている。なんて難儀な性格だろう。
かつ、こんな、丸太を回し続ける人間にパラサイトするような(そう、私はもはや丸太に触れてもいないのだ)、楽しみの少ない仕事をやっていていいものなのだろうか。ニートの頃に考えていた「働くのは嫌だけどどうしてもお金を稼ぎにいかなきゃいけなくなったときには、自分の倫理観や哲学に沿った職場に身を置こう」という目標は、どうしたのだろうか。
言い訳がしたい。引っ越しという貯金泥棒をやって、毎日生きるだけでお金が溶けていく中で、労働場所についてシノゴノ言っていられなくなったのだ。貯金の目減りが恐ろしい。このまま0になり、マイナスになり、赤色になったら、私のこの身は、どうなってしまうのだろう。想像もつかない。
そこそこ時給がよくて、スキル的に負担なくできて、あまり人と関わらなくて済む仕事ならなんでもいい。いつの間にか、崇高な職場像は、ある程度の都会ならいくつかヒットしそうな、ありきたりで現実的なラインまで下がっていった。
そのラインでいくと完全に理想的な職場だ。現住所から県を跨いで通勤するので、電車で片道1時間かかるけれど、その間の定期が手に入るのがいい。もう少し生活が落ち着いたら、休みの日にふらっと途中下車をして、いろいろな街を歩いてみたい。電車の中では強制的に本を読んだり音楽を聴いたりしなきゃいけないと思わせることも、気に入っている。人身事故が起こった時の悲しさや、ダイヤの乱れでスマブラの上撃墜をされたときみたいな満員電車に乗る羽目になったときは、さすがにうんざりだけど。
それでもやっぱり、自分で車を運転しなくてもいいということは、自分のドライブ・テクニックに自信がない私にとっては魅力的だ。へとへとになった帰り道、お酒を飲めるのが嬉しい。最寄駅からアパートまでの徒歩18分は飲食店街になっていて、帰路の時間はダクトからいい匂いが漂う。それをつまみに、スーパーで買った発泡酒を飲むのが最近の日課になっている。
生きているだけでお腹が空いて、ご飯を食べるためにお金がかかることが苦しい。限界まで空腹を我慢してしまう。仕事のストレスでたまらなくなって、適当に買った惣菜を過食してしまう夜も、ある。自分の精神がままならない。
実家にいた頃は祖母が作った野菜が山のように溢れていて、無料でギりたい放題だった。あの頃が懐かしい。初めて、大根や玉ねぎを自腹で購入した。結構いい値段、するんだな。絶対に戻りたくないけど。自由とは、青春だ。アダルトチルドレンに、ようやく青春がやってきた。肉体が追いつかないぜ。
しばらく肉や魚を食べていない。豆腐とキムチは相棒。朝9時に起きて開店と同時に駆け込めば、格安で卵が手に入るスーパーも見つけた。新しい街で自分の行動範囲が増えていくのは、ゲームみたいで楽しい。28年ずっと同じ街で暮らしていたから、知らなかった。
来る日も来る日も、そのうちAIが上手にやってくれそうな写真を撮り続けるのは結構辛い。最初のうちは被写体のかっこよさに痺れていたけど、どうやら、そういう感情を捨てないとノルマ枚数は達成できないようだ。写真を撮り続けるだけではなく、出荷の梱包作業もさせられる。100万とか150万とか、私ひとり分より遥かに価値のありそうな時計が、世界各国全国各地に、ぽんぽん出荷されていく。
なにやってんだろうなあ。帰りの電車で、吊るしのスーツたちに囲まれながら、安楽死の本を読んでいる。
無職に戻りたいけど、実家には戻りたくない。もう少しがんばってみますね。
所用で絵を描いたり、ロゴデザインをしたり、CDジャケットのレイアウトを組んだりしている。楽しい。こういうことばっかりできていたらいいのにな。
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