孑孑日記③ なぜ書かないか

 3時間前にはこれを書こうと思っていたのに、もう今ではどっか行ってしまった。バカか?
 というのはさておいて、ともかく書き始めてしまったからには、どうにかして紙幅を埋めなければならない。あるとすれば野球か本か社会的なことだが、いずれも書き出す勇気が出ない。野球はデータが好きだが纏めている途中だし、そもそもデータスタジアムもDeltaも契約していないのだ。その状態で集められるデータなんて高が知れている。そんな有り様で人様に見られる状態にする文章なんて書けたものではない。それに社会的なことと合わせ、職場でしてはならない話は野球と政治の話というではないか。未整理ではなかなか出しにくくて敵わない。やるならはじめからこれを書くぞ! と意気込んでからやらないととてもとても。「何を書こうとしたか忘れた、バカか?」なんて書き出しではそっちに舵を切れんのだ。だからこのテーマはやらない。
 本にしても、一昨日くらいにやったばかりで、考えていることを書き散らすつもりだから場合わせに本のことを書くのも何か違う感じがする。書けばいいじゃん、と思われる方もおろうが、これは意地である。なんかやりたくないのだ。譲らんぞ。

 しかしこんなので終わるのも癪なので、一つだけ思うことを置いておきたい(前の文章を書きながら思いついたのは内緒である)。それは、なぜこうも僕が書くのをためらうのかということである。臆面もなく、堂々と書けばいいとは思っている。第1回でも書いた通りだ。しかし個人的な信条として、きちんと正確に語りたいし、車輪の再発明もしたくない。特に後者が僕にとっての問題だ。すなわち、僕が書こうと思ったことが、とうの昔に他の誰かが言っているということだ。

 例えば、他人に何かをしてやるとき、「この私があなたにわざわざやってあげている」と思ってはいけないということ。相手を見下す構造を積極的に作り出して、ケアされる人を弱者に据え置くことになるし、相手がそれを受け入れないとき、怒りを覚えて相手を攻撃する種にもなる。だから誰かをケアするなど何か相手にしてやるときには、あくまで対等な立場である必要がある。こんなことを思うのだが、こんなものケアの理論ではずっと言われていることだし、ケアを受ける当事者からも普通に出てきていることだから、わざわざ僕がここでさも自分が見出したかのように書いても、何の意味もない二番煎じになる。他のことでも、「でももう言われているしなぁ」と察することが少なくない。そんなわけで、書くことが見当たらなくて筆がとまってしまうのである。
 創作のペースも恐ろしいほどに鈍っている。書けない僕はただの木偶だから絶対に書いていないといけないのに。
 ともあれ、なんやかんやで今日は1178字を書くことができた。この調子で、思ったことを明快に書き続けてくれよ明日の俺。

(2023.7.24)

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