日記130 人間蹂躙の意識について

 たとえば人間の蹂躙があったとする。殴打、脅迫、強要、強請、障害、監禁、強盗、詐欺、そして殺戮や抑留などが行われる。そうした行為を行なう奴らに、人間にこんなことをして平気なのか、と問いかけ風の非難を浴びせる人は非常に多いと思われる。これは相手の情に訴えると同時に、同じくその悲劇を人間の悲劇と考える仲間の共感を集めることができ、非難側の連帯をつくり出し相手を動かす蓋然性が高まる。Twitter(現X)ではよく見ることだし、そうでなくてもマス向けの報道などではよく見る手法である。
 しかしこれは相手も自分たちの非難に共感することを前提としているので、そうでない場合には有効性をもたない。むしろ、共感をしてくれないために、相手に対する敵愾心を抱きかねず、さらなる憎悪を蔓延らせる恐れがあろう。
 ここで提起しておきたいのが、人間を蹂躙している側が、その蹂躙されている人たちのことを、はたして人間と思っているのか、ということである。僕は、たぶんそうとは思っていないのだろうと考えている。敵味方二元論に陥りかねないのは承知だが、そうとしか思えないのだ。人を潰すのに抵抗を覚える人は山ほどいるが、小さな羽虫を潰せる人はいくらでもいるだろう。それは羽虫が命ある何かとはいちいち考えないからじゃないか。人間の蹂躙者も、相手を人間として認識しているのじゃなく、自分に歯向かう邪魔なもの、不満を抱かせる障害物、単にイラつくもの、やりたいことの実現を妨げるものくらいの認識でいる。それは人ではない。邪魔の種類のひとつ以上の意味はもたない。民族浄化はその典型といえる。自ネイション統一のためには、自ネイションの領域にいる異民族は統一を妨げる異物であり、その実行の邪魔でもある。だから、統一という一大国家プロジェクトを成功させるために、その妨げを排除するという行動に出ているにすぎない。もしこれが岩盤や大河、あるいは無数のバッタであるとしたら、それを克服するために道路や橋を通したり、あるいは発破、埋立て、駆除などの行動をとるはずである。そうした克服対象が人間の集団であった場合、どんな行動をとるかは想像に難くない。人間の蹂躙の現場では、逆説的であるが、人間を蹂躙しているという意識はない。ただ、邪魔を取り除いている以上の意識は、蹂躙者にはないのである。

(2024.2.14)

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