日記56 『高架線』について

 滝口悠生『高架線』についてちょっと考えた。たぶん、みずから語ることによる、事実や記憶の再構成というものを考えなければならないと思う。たしか「語っているうちに、他人の話が自分のことのように思えてきて」みたいなところがあったと思うし、語ることをいま、忘れているみたいなのもあったような……
 この小説では、すべてのパートについて、語り手が名乗ってから始まっているので、実際にこんな話し方をするやつがいるのかという疑問を措けば、すべてその人物が語っている・・・・・と見なせる。すなわち口頭か、あるいはそれに近い手記のような感じである。脱線や脈絡、まとまりのなさを滝口は意図して主軸に置いているから、しゃべりのようなものというのを、この作品においての語りの前提にしていると思う。
 そのために生まれるのが、記憶の再構成である。七尾歩の妻が七尾歩と田村とともに、三郎が失踪後に働いていたうどん屋に行き、カレーうどんを食べながら三郎が失踪しこのうどん屋で働き出すまでの顛末を聴く場面がある。鴻巣友季子は解説でこのシーンについて、三郎の語りが終わるまで食べ終わられることのないカレーうどんが、リアリズム的に論われることもあると指摘したが、まさにこのぜんぜん食べ終わらないカレーうどんこそが、記憶の再構成の結果なのではないかと僕は思うのである。この作品の語りは、臨場感に溢れているものの、事後的に語られている。そのなかで、小説に書かれていることは、語り手のイメージに合うように再構成される。七尾歩が失踪中の三郎とかたばみ荘であったという記憶は、彼のなかでは確信が持てないものである。髪型もはっきりしない。三郎、どんな出で立ちだったっけな、と苦慮する七尾歩は、まさに語ることによって記憶を再構成する過程にいたのである。一方彼の妻は、三郎失踪事件の顛末を聴いたというエピソードを語り、当時の記憶を他人に語るにふさわしい形・・・・・・・・・・・・に仕立て直したのだ。
 こんな仕掛けが、『高架線』にはあったのだと僕は読んだのである。

(2023.10.4)

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