孑孑日記37 知ることの害

 ザッハー=マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』の解説で、こんな箇所があった。いわく、ゼヴェリンは読書をし、勉学に励んできたゆえ、世の中のことはどれも既知であり、人生はそこで知り得たことをなぞるだけのものになっており、つまりは退屈なのだ、と。なるほど確かにそうかもしれない。本(あるいはテキスト)の時間あたりに人間が知覚できる情報量は多い。体験とは比べ物にならないくらい、効率的に大量の情報を得ることができる。だから読書家はものをよく知っている傾向があるし、複雑な情報の奔流にも耐えられる側面がある。だがそれゆえに人間的な動揺が少なくなる場合もないわけではない。なぜならそれはもう知っていることだったり、受容しきれないほどの量の新情報でもなかったりするからだ。本人は、それで特に困りはしない。しかし、周りからすれば感受性に欠ける、「体験について鈍感なやつ」とみなされる。だから読書にふける人に対して他人は、もっと実際に体験しないとだめだよ、と諭すのである。だがありきたりな体験ではゼヴェリンのように、既知のことをなぞるだけの時間を過ごす羽目になる。珍しかったり、異常な状況でしか、驚きや刺激を獲得できないのだ。
 周りからの刺激に鈍感になるから読んだり勉強したりしすぎることはだめなのかと言ったら、そうではないと思う。狭い範囲のみだとそりゃ問題含みだが、ある程度広く見ていたなら、それは圧倒的にしたほうがいい。それに体験ばかりに固執するほうが、得られる学びも限られるし、何より同じひとつの場所に凝り固まる危険が得るように思われる。それは行動者が行ける場所は本人の素質や所属等によって大きく制限されるからだが、詳細はここでは避ける。
 とはいえ既知のことばかりになると退屈な答え合わせの人生になるのは間違いない。結局どちらの道をとっても批判は飛んでくるから、個々人がどちらに重きを置くか決めて選ぶべきとしか言えない。しかし、体験をどんどん、という意見に、あまり賛同したくない自分がいる。

(2023.9.8)

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