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【小説】アネシカルリサーチ シークレットクラブと倶利伽羅のカルマ 11

 目を覚ましたのは、朝の四時だった。幸か不幸か、早めに寝たおかげで、狂い切った生活リズムがリセットされたようだ。おれは寝ている三人を起こさないように、ひっそりと共用スペースに向かった。ミネラルウォーターをコップに注いでいると、入口の扉が開いた。現れたのは、小野瀬みなみだった。
 みなみはこちらにまだ気づいていなかった。おぼつかない足取りで、キッチンに近づいてきた。ぼさぼさの髪、派手なメイク。いつもの清楚で大人しい彼女からは、想像もできない姿だった。
 みなみは冷蔵庫を開けようとして、ようやくおれの存在に気づいた。目が合ってしばらくは、お互い口を開かなかった。おれは、何と声をかけてよいのか分からなかった。彼女からは、明らかにアルコールの匂いがした。
「……おはようございます」
 絞り出したのは、間の抜けた挨拶の言葉だった。
「……おはよう、猿川君」
 あきらかにそれと分かってはいたが、おれは念の為に確認した。
「もしかしてその……朝帰り?」
 みなみは手で顔を覆った。
「猿川君って、こんなに早起きだったっけ?」
「いや。リズムが狂いすぎて、一周回ったみたいで」
「そう……」
「水、飲むか?」
「うん、ありがと……」
 みなみは水を飲むと、シャワーだけ浴びてくると言って自分の部屋に向かった。二十分ほどして戻って来た彼女は、ノーメイクにスウェットという女子力ゼロの姿だった。どうやら、全てをさらけ出す覚悟ができたらしい。
 何となく流れで、朝ご飯を一緒に食べることになった。食堂はまだ開いていないので、冷蔵庫にあるもので適当に作った。パンと目玉焼きとベーコン。それにヨーグルトとバナナ。おれにとっては十分すぎるほど豪華な朝食だった。
「見られちゃったのならしょうがないね。そろそろ猫を被るのもしんどくなってたし、いい機会だと思うことにするわ」
 吹っ切れたみなみは、驚くほどサバサバしてフランクだった。
「さっきまで飲んでたのか?」
「そうだよ」
「まだ未成年……」
 以前にも、別の誰かに同じようなことを言った気がするな。
「わたしの家系は代々酒豪なの。全然平気よ」
 別にどうこう言うつもりはなかった。大学生はもう立派な大人だ。自分自身の判断で法を犯すのなら、勝手にどうぞ。それがおれの考えだった。
「それにしても、遅くまで飲んでたな」
「ストレスがすごく溜まってたの。全部嫌になっちゃって。これまでずっと頑張ってきた反動かも……」
「猫被って、みんなにいい顔したり?」
「それもそうだけど……。勉強のことが一番かな」
「勉強?みなみは順調だろ」
「全然。今の成績は、全体で見たら中の上ってところだし」
 おれからしてみれば、それを順調だと言うのだけれど。目指しているところの違いだろう。
「昨日の件……鷹野さん、だっけ」
「うん。鷹野玲香」
「彼女、すごくキレイだね」
「そう、だな……」
「昔からの知り合い?」
「一応そうなるかな。高一の時に、うちにホームステイしていたことがあって」
「すごい。憧れるな、そういうシチュエーション」
「別に何もなかったけどね。実は、瀬戸熊もそうなんだ。三人で、同じ屋根の下で生活してた」
「そうなんだ。だから瀬戸熊君とはあんなに仲が良いのか」
「おれだけかもしれないけど……兄妹みたいな風に思ってる」
「ふーん」
 みなみはパンをかじりながら、おれの方を見た。兄妹という言葉には、納得がいっていないらしい。読みの鋭い子だ。
「鷹野さんは准教授で、しかもエクレシアの一員なんだよね……凄いな」
「高一の時からすごかったよ」
「やっぱり生まれた時に、もう決まってるのかな?」
「……才能ってやつ?」
「その言葉、まじでムカつく」
 みなみは深いため息をついた。猫を被っていない、本音の言葉だった。
「わたし、小さい頃からずっとお母さんに言われてたの。あなたは特別だって。才能があるんだから、勉強しなきゃもったいないって。わたしはそれを、ずっと信じてた。小学校も中学校も高校も、ずっと一番だった。……でもそれは特別だからじゃなくて、他の人より勉強してたっていう、すごく単純な理由だった。だから田舎から出てきて、努力だけじゃとても敵わない人もいるって知って……。正直、納得がいかないの」
「……だからヤケ酒を飲んで、朝帰りか」
「バカだと思う?」
「ううん。思わないよ。意外だっただけ。大人しい優等生だって、ついさっきまで騙されてたから」
 みなみはゲラゲラと笑った。いたずらっぽいその笑顔は、以前よりもずっと魅力的だった。
「猫を被ってたのは、感情を悟られないようにするためだよ。気持ちを悟られて、いいことは少ないでしょ?」
「まあ、確かに」
「本当のわたしは、大人しくなんかない。とても嫉妬深いの。猿川君も考えたことはない?先天的な優位性が覆せないなら、今までの努力はどうなるのって。そうだと知っていたら、こんなに勉強ばかりしてこなかった」
 月並みな言葉が頭に浮かんだ。その努力は無駄にならない。君の礎になる。これからきっと良いことがある――。そんなのはどれも嘘っぱちだ。間違った努力は無駄になるし、何の役にも立たない。そしてこの先良いことがあるかなど、誰にも分からない。適切な言葉が見つからなかったおれは、しょうもない話でお茶を濁すことにした。
「じゃあもし髭がボーボーに生えた神様が、時を戻してくれるとしたら、みなみは何をするんだ?」
「……何で髭がボーボーなの?」
「神様はそういうもんだろ。ナメック星人のほうが良かった?」
「ナメック星人?」
「ディテールに引っかかるなよ。学生時代に時が戻るなら、何をするっていう話」
「うーん、そうだな……。やっぱり恋愛かな」
「なるほど。意外と月並みだね」
「しょうがないでしょ。これまでずっと、我慢してきたんだから」
 ずっと、か。そりゃそうだよな。倶利伽羅に入るには、勉強に集中する必要があるのだから。
「高校なんて、三人としか付き合ってないし」
「……え?」
「しかも家庭教師とか、近所の大学生とか、年上ばっかりだったの」
「へえぇぇ……」
「もしかして、ビッチだとか思ってる?」
「いやいや。そんなこと思ってないよ」
 いきなりのブッコみに、おれは動揺していた。ちゃっかり遊んでるなこいつ、と思っていた。三年間で三人なら、全然普通だと思うのだが。
「幻滅した?」
「……どうだろう」
「いいよ、本当のことを言って」
「……そうか。じゃあ正直に言うよ。意外だったけど、別に幻滅はしてないよ。というより、おれは今のみなみの方がいいかな。前のみなみは何かこう、壁を感じた。いい子だと思ってたけど……それだけだ。ありきたりでつまらない人より、予想できないくらいの方が楽しいよ」
 みなみはおれの返答を聞いて、少しだけ嬉しそうな顔をした。ノーメイクの彼女はいつもより地味で素朴な顔だったが、おれは好きだった。田舎育ちのおれには、馴染みのある顔だ。
「猿川君て、鷹野さんと仲が良かった?」
「……自分ではそう思ってる」
「だと思った。なんでか、分かる?」
「なんでと言われても」
「その理由はね、童貞だからだよ」
「……は?」
「猿川君、たぶん彼女はいたけど、Hはしたことないでしょ。だから、すごくちょうど良かったんだと思う。変にオドオドしてないし、かといってガツガツしてないし。猿川君は、異性として見られてなかったんだよ。だから同じ屋根の下にいても、普通に接してくれたの」
 ――おいおいおい。またぶっこんできたぞこいつ。それは暴論だろ。どうして童貞が相手だと、女性は緊張しないと決めつけるのだ。そもそも、おれが童貞であると判断した根拠は何なのか。
「そんなの、すぐ分かるよ。もしかして気付いてない?すごく童貞っぽいよ、猿川君」
 すべてをさらけ出したみなみは、なかなかの毒舌家だった――。核心をクリティカルに突かれたおれは、デザートのバナナも食べずに、しばらく机に突っ伏した。
「ごめん。ちょっと言い過ぎた?」
「いいよ……確かにおれは童貞ですから」
「……かわいい」
 みなみがポツリと呟いた。
「ん?」
「実はわたし、中学高校と六年間、ずっと好きな人がいたんだけど」
「……そうなんだ」
「うん、でも結局、何も言えなかった。その人だけは、特別だったの」
「六年間も好きだったんだから、よっぽど良い人なんだろうね」
「そうなの」
「モデルみたいな人?瀬戸熊みたいに」
「ううん。背は低い方」
「村田みたいに、面白いやつとか?」
「うーん。別に普通かな」
「蜂さんみたいに、人望があるとか?」
「全然。あんまり目立たない人」
「……じゃあ、そいつのどこに惚れたのよ」
「顔」
 みなみはおれの目をまっすぐ見て答えた。
「……正直だな。まあでも確かに、顔がタイプじゃないと恋愛は始まらないよな」
「そうだよ。男はまず顔。そのあとに性格」
 その考えには賛成できた。おれも女性を見るときは、どうしたって見た目から入ってしまう。
「すごくかわいい顔だったの、彼」
「うらやましいやつだな。みなみに好かれるなんて」
「猿川君に似てるの」
「……え?」
「すごく似てる」
「……おれに?」
「うん。すごく」
「へえぇ……」
「だから猿川君と最初に会った時、びっくりした」
「…………」
「わたし、猿顔が大好きなの」
 みなみは身体を寄せると、おれのメガネを外した。シャンプーの匂いと、みなみの甘い香りが混ざり、おれの鼻をくすぐった。おれはすぐに、みなみの手からメガネを取り上げた。
「おい。酔いすぎだよ」
「……そうかもね」
 猫の皮をはいでみると、そこにはライオンがいた。おれはここでもシマウマだった。しかも目の前にいるメスライオンは、どうやら狩りが上手いようだ。おれは合わせた視線を外すこともできず、ごくりと喉を鳴らした。みなみは確かにかわいい。だがとても、おれの手に負えるような相手ではなかった。
 みなみがゆっくりと顔を近づいてきた。金縛りにあったように、おれはぴくりとも動くことができなかった。そして、微かに唇が触れた。ここは寮の共用スペースだ。だがそんなことも忘れてしまうくらい、おれは気持ちが高ぶっていた。
「――あれ、二人で何してんの?」
 上下スウェットの恭子さんが、二階から降りてきた。おれは戸惑いの表情を浮かべたまま、みなみの方を見た。彼女の眉間には皺がよっていた。
「あれ?もしかして、まずいタイミングだった?」
 恭子さんは面倒見のいい先輩だったが、間が悪い人でもあった。
「……いや、そんなことないですよ。おれはもう食べ終わったんで、戻りますね」
 おれはとっさに、その場を離れるという選択をした。とりあえず今は、時間が必要だと思った。冷静になって、心を整える時間が。
 背後に感じるメスライオンの視線を振り切り、おれは部屋へと戻っていった。

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