撃ったはずの犬(短編小説)

 新しい建物は、全面ガラス張りだった。
 そのガラスは細かいひし形模様に凹凸ができていて、映ったものすべてを屈折させしまうから、前を通り過ぎるとき、いつも緊張感があった。

 建物がつい2週間前に完成されたというのは、向かいのパン屋から聞いた話だ。毎日、通勤で駅に向かう途中の道沿いで、ずっと建設工事が行われていたはずなのに、その過程をまるで覚えていなかった。初めて建物を視界に入れたとき、わたしはどんな小さな音にもびくりと身体をこわばらせる犬みたいに立ち止まり、上から下まで眺めまわした。0だったものが100になった、と思った。

 一度気づくと意識してしまう。その建物を横切るときは、かならずガラス張りの壁に映る自分の姿を確認するようになった。ガラスの中のわたしはばらばらだった。ひし形の縁を折り目にして、体のいたるところがありえない方向に曲がっていて、目の高さも左右で異なっていた。立ち位置をずらすと、また別のかたちでばらばらになった。

「もうひと月経つけれど、」

 あの建物から家主が出てくるところを一度も見たことがないのよねえ、とパン屋のおばさんはつまらなそうに代金を受け取って、チョココロネとピザトーストを同じ袋に詰めた。甘いものとしょっぱいもの、と思ったけど、「そうなんですか」とわたしはおばさんに相づちをうった。

 大学を卒業するまでの間、ここでアルバイトをしていたから、おばさんとは今でも仲がよくて、会社帰りに立ち寄っては売れ残ったパンを買っていた。おばさんはたいてい安くしてくれたり、私物のおせんべいをタダでくれたりした。

「あの建物の横に大きなガレージがかまえてあって、この前そこに車が入って行ったのを見たのよ。それでね、あたしびっくりしちゃった。その車、なんだったと思う?」

「ベンツとかですか」

 わたしは適当に答えた。

「違うわよ、パトカーなのよ! パトカーがガレージの中に入っていったの。見た目は真っ黒な四角いワゴン車なんだけどね、頭の上にちょこんと、赤くてピーポー鳴るスイッチがついてたのよ。それって絶対パトカーでしょう?」

「救急車にも付いてますよ」

「なに言ってんのよ、真っ黒な救急車なんてこの世にあると思う? どこに連れていく気よあの世よそれは。霊柩車じゃないんだから」

 それはたしかにそうだった。
 それから最近のわたしの仕事事情を聞かれ、わたしは顎の尖った性格の悪い営業の女の話をした。おばさんは悪口が大好きなので、ひと通り聞くと満足した様子で「辛いだろうけどがんばって」と食べかけのおせんべいの袋をくれた。なかを覗くと、おせんべいは丸くて茶色くて錆びたお金みたいだったから、アルバイト代をもらったような気分になった。

 ある朝、建物の通りを歩いていたら、女子高生が建物の前で立ち止まりガラスを呆然と眺めていた。しばらく眺めていたと思ったら、長い茶髪を手櫛で整えだした。ひととおりきれいにまとまったら、今度は頭を思いきり縦に振って髪を逆立て、それからまた手櫛で整えた。その一連の行為を何度か繰り返したのち、手提げカバンからポムポムプリンのポーチを取り出して、ポーチの中から小さな巾着を取り出し、巾着の中からビューラーとマスカラを抜き取って、ガラスの壁を鏡がわりにメイクをし始めた。

 そういえば、と思った。ガラスの壁の向こうにいる家主には、わたしたちの姿が見えているのだろうか。

***

 会社に着いて女子トイレに入ると、顎の尖った性格の悪い営業の女が鏡で化粧を整えていた。偶然にも、彼女の化粧ポーチにもポムポムプリンがプリントされていたので、ポムポムプリンはあらゆる女の層に人気があると再認識した。

 わたしは鏡越しに彼女に会釈をして個室に入った。音姫を流しながらスマートフォンをいじり、「ポムポムプリンすげえ」とTwitterでつぶやいた。音姫の音が途切れた瞬間にもう一度音姫のスイッチを押す、というのを3回繰りかえし、そのあいだ用も足さずにひととおりSNSを確認した。SNSで友人たちは、英語で何かを綴ったり友だちとホームパーティをしたりラーメン次郎に行ったり子どもを産んだりしていた。少し胸焼けがして、そういえば、さいきん話をしている相手がパン屋のおばさんしかいないことに気づいた。

 個室を出るとまだ顎の女がいた。何も言わずに手を洗い女の横を通りすぎようとした瞬間、女は「いつまでそうやって逃げてるつもりなのかしら」と独り言にしては大きすぎる声で、ドラマのセリフみたいなことを言った。トイレにはわたしと彼女しかいなかった。気づかないふりをして急いでトイレを出た。何事もなかったかのようにデスクに着きパソコンを起動して、眼鏡をかけた。青いデスクトップが表示されてようやく、わたしは自分の鼓動がすごく速まっていることに気づいた。冷たくなった指先はなかなか温まらなかった。

***

 誰もがその建物に見慣れてしまい景色になって行きそうだったころ。
 いつものように建物の前を通り過ぎると、とつぜん空から犬の吠える声が降ってきた。
 嘘だろと思いながら頭上を見上げると、建物の屋上らしきところに黒い犬がいるのが見えた。屋上はとても高く、真っ黒なラブラドールレトリーバーだったから、目がどこに付いているのかはわからなかったけれど、犬は確実にわたしのことを見下ろしていた。犬を見上げたままわたしが歩き出すと、それに合わせて犬の首の角度がちょっとずつ動いていく。

 犬の話をおばさんにすると、「そんな犬いたかしら」とおばさんは首を傾げた。

「いますよ、屋上にいるんですよ。たまに遠吠えしてますよ」

 わたしがむきになって言うと

「遠吠えは夜、オオカミしかしないものよ」

 と、おばさんはレーズンパンと洋梨のパンを同じ袋に詰めた。

***

 次の日も、その次の日も、1ヶ月経っても、犬はまいにち決まって朝の7時50分には屋上にいた。犬の首はいつだってわたしの移動にあわせて傾いた。帰宅する19時前後はいなかった。

 そのうち、建物を見上げなくても、犬の視線を感じられるようになった。極力建物を視界に入れないようにしても、足早に通り過ぎてみても、犬はこっちを見ていたし、わたしの身体はばらばらに屈折した。

 はじめは面白かったけど、わたしはだんだんと、見下ろされる視線が不愉快になっていった。一度も見たことのない家主のことも、ガレージにしまわれるサイレンをつけた真っ黒な車のことも、腹が立った。

 だからある朝、わたしは意を決して建物の前に立ち止まった。見上げると、やはり黒い犬がこちらを見ていた。周りに人が誰もいないことを確認すると、わたしは右手をピストルの形にした。弾を装填し、照準を犬のおでこに定めると、小声で「バーン!」と言いながら、手首を上にくいっと曲げた。

 そうしたら、犬は一瞬びくりと身を震わせたあと、今まで聞いたことのない、「キューン」とか細い声をあげ、地上からは見えない角度に姿を消してしまった。その直後「Hey!」という声とともに誰かが犬に駆けつける足音が聞こえてきたから、わたしは一目散に逃げた。空からは、雨が降りはじめていた。

 雨はずっと降り続いた。局所的には大雨となり洪水のおそれがあるとネットのニュースに書いてあった。予備に会社に置いておいたはずの傘がなくなっていたので、定時になるとすぐにコンビニで傘を買って電車に乗った。

 わたしは家主のことを考えた。「Hey!」と言っていた。あのあと家主と犬はどうしただろう。彼はどこの生まれで、犬とどうやって出会ったのだろう。犬の名前はなんだろう。そんなことを考えながら、帰りの道をあるいた。道には水たまりがたくさん出来ていて、この道はこんなにも歪んでいたのかと驚いた。

 ガラス張りの建物の前にも、ずいぶん深い水たまりが出来ていた。立ち止まってその水たまりを覗き込むと、弾丸のように落ちてくる雨粒が砕けて水面が揺れ動き、反射して映っていた建物が歪んで見えた。そこにぽつりと黒い点が揺れているのを見つけた。わたしははたと振り返り、実際の建物を見上げてみると、今朝撃ったはずの黒い犬がやはりわたしを見下ろしていた。屋上はやはり高いので、犬が濡れているかどうかまではわからなかった。

「そんなに踏みつけるとお洋服濡れちゃうでしょ」

 すぐそばで、ざぶざぶと水たまりを踏みつけてはしゃぐ息子に母親が注意をしていた。

 そのとき急に、幼いころは水たまりが大好きで、雨が降った日は水たまりを見つけてはわざとらしく踏みつけて歩いていたという忘れていた記憶が襲いかかるようによみがえってきた。
 わたしは、わたしが思い出すまでは水たまりが大好きだった頃のわたしは世界に存在していなかったのだということに気がついて泣きそうになった。

 このことを今すぐ誰かに打ち明けたいのだけれどパン屋は雨の日は休みだし、SNSは自分の思ったことを打ち明けるのを許さなかった。何もかも見えないように傘を斜めに構えると視界は急に傘の骨ばかりになった。

 それでもきっと犬はわたしを見下ろしているし、ガラス張りに映るわたしの姿はばらばらになっていると、わたしは知っている。

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