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首里城が燃えていた

 今日は一日ずっと身体が重たい。いつものように目が覚めてスマホの画面を見ると、悪夢が映っていた。真っ赤な炎をあげ骨組みがはっきりとした首里城。焦げた臭いが伝わる勢いだった。受け止めることのできない出来事に気持ちが追いつかず、硬い布団の中で何度も体制を変えながら4度寝くらいした。ようやく昼になって布団から脱出し、腹ごしらえをして現場に向かった。



 龍潭(りゅうたん)通りに到着した13時40分ごろ、まだ多くの人たちが放水活動の続く首里城を心配そうに眺めたいた。呆然と立ちすくむ人々、鼻を赤くし涙をにじませる女性。やっと今朝の出来事が、現実に起きたことなのだと悟った。しかし、いくら目の前に現実が広がっていても、気持ちが全く追いつかない。首里城の周りを歩くことにした。

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 棒のような足を一本一本動かすと、規制線、警察官、消防車両などが目に入る。首里城公園内には入れないので周りの歩道を歩いていると、パキッパキと乾いた音が鳴っていることに気がついた。足元をみると炭と化した物体がいくつもあった。今朝の凄まじい映像が再び脳内で再生された。漂う焦げ臭さが鼻腔を強く刺激する。

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 高台にある公園に着くとそこにも人が集まっていた。那覇の街を見下ろすと、どんよりした薄暗い空気に包まれていた。
 龍潭のほぼ反対側にある高台からも、微かに首里城をみることができた。しかし、そこでは建物の大部分が焼失したことを思い知らされる。消防隊員が懸命に作業をしていた。

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 30分ほどあてどなく歩き回った後、沖縄県立芸術大学に向かうことにした。芸大前の道路を進むと、円覚寺(えんかくじ)の近くまで入ることができた。そこから城を見上げると距離が近い分、嫌でも一層よく見える。さらに胸が苦しくなった。綺麗に赤く漆塗られた壁は灰色になり、規律正しく並べられた赤瓦は無惨な姿をしていた。なにも言葉が浮かばない。しばらくボーッと眺めたのち帰路についた。

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 家についてようやく涙が出てきた。少しずつ気持ちが落ち着いてきたので、過去を振り返ってみる。


 初めて首里城を訪れた(記憶にある)のは中学2年生の頃だった。当時コンパクトカメラを持っていて、たまに家の近くの花や街並みを撮り歩いた。そのことを知った美術の先生が「首里城フォトコンテスト」を紹介し、応募締め切りのギリギリに友達と撮影に行った。撮った中から5点くらいを応募したが、その中の1点が国王賞に選ばれた。初めて自分の写真が評価され大喜びした。写真の歓びに目覚めた朝日少年は、高校入学のお祝い金とお年玉を合わせて一眼レフカメラを購入、現在にまでいたる。


 静岡の大学生時代、地元を離れて生活するうちに沖縄への愛が強くなった。大学にはいろんな地域から学生が集まっており、それぞれの故郷について話すことが度々ある。沖縄は良いイメージで語られる一方、沖縄の抱える問題に対して心ない言葉が投げかけられることも少なくなかった。そういった言葉で傷つき落ち込んだ時には、ウチナー(沖縄)を愛する気持ち、歴史や文化への誇りが自分を励ましてくれた。その大事なシンボルが「首里城」だったのだ。


 失って初めて存在の大きさに気がつくことがよくある。しかし気がつくことができれば、そこからまた進み始めることができる。沖縄戦で県民の多くの命とともに失われた首里城も1992年に復元され、世界中から多くの人たちに親しまれてきた。戦後復興の象徴的存在でもある首里城が一瞬にして失われたことは、言い表すことのできない苦しい気持ちである。


 けれども、首里城は琉球王国時代、何度も焼失したがその度に再建されてきた。ウチナーンチュが自分たちの歴史・文化やアイデンティティーを大事にし、沖縄に思いを寄せるあらゆる人たちが力を合わせれば、きっとまた蘇らせられると信じている。

ウチナーよ!チバリヨー!!

ひやみかち首里城 !

首里城フォトコンテスト (2)



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