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「都会から逃げたい」で故郷・岩手にUターンを決めた男性の場合【「理想の移住」を実現させた3家族の暮らし方②】

「いつか田舎暮らし」と夢見る人も多いだろう。だが、憧れだけで移住はできない。なぜ移住したいのか。移住先ではどんな暮らしがしたいのか。そこをはっきりさせることが、移住成功への第一歩だ。具体的なイメージを固めるために、「理想の移住」を実現させた3組のケースを、2021年6月に刊行した『移住。成功するヒント』(朝日新聞出版)から紹介する。
(初出:AERA dot. 2022年7月21日)

『移住。成功するヒント』(朝日新聞出版)

「理想の移住」を実現させた3組のケースの2番目は、JRの駅員として働いていた時に「地元のために何がしたい?」と問われてUターンを決意、陸前高田市の移住定住の窓口で人を呼び込むコンシェルジュになった男性だ。

■「理想の移住」を実現させた1組目の回はこちら

 岩手県東南端、三陸海岸の玄関口であり、宮城県との県境に位置する陸前高田市。松田道弘さんは、生まれ育った町に隣接するこの町に、2019年、地域おこし協力隊として着任した。陸前高田の北側にあたる遠野市で生まれ、高校卒業までを過ごす。盛岡市内の医療福祉専門学校を卒業し、介護福祉士として働いたあと、義兄の勧めでJR東日本の駅員になった。

 5年間務めた職場で、当時、公私ともに仲のよかった上司に「やりたいことは何?」と聞かれ「岩手のために働きたい」と答えた松田さん。その背景には、2011年の東日本大震災の経験がある。松田さんは震災時、地元・遠野市の施設で勤務していた。遠野市は三陸と内陸の中間に位置していたため、支援拠点などが設置された。市内のNPOや町づくり団体が活動したり、それを市民がバックアップしたりしている姿を間近で見ていたこと、大船渡や陸前高田にボランティアに行っていたことが関係しているだろう。

 上司は、「岩手のために働きたいという思いは、JRの仕事をしていて達成できるのかと問われました。岩手の人のためになりたいなら、町づくりをするために働け、そのためにはまず情報収集から始めろ」と猛プッシュ。

 情報収集をしていると、東京・有楽町にあるNPO法人ふるさと回帰支援センターにたどり着く。ここは、46都道府県の移住情報が集まるサポート施設。岩手県のコーナーでもらったチラシに陸前高田市の地域おこし協力隊があった。

松田道弘さんは2019年にUターン移住。地元の人の協力で、家庭菜園では1年目から立派な大根が取れた

 その後、陸前高田に絞って調べていくなかで見つけた市内の一般社団法人の求人に応募したが、採用には至らなかった。JRに退職する意向を伝えるのは次の勤め先が決まってからにしようと思っていたという松田さん。2月時点で4月以降に働く場所が決まらず、かなり焦ったという。

「不採用になった一般社団法人で面接を担当してくれた人に、恥をかく前提で電話をしました。その人が別団体の副理事長もされているとのことで、そちらを受けさせてもらったんです。それが、いま自分が地域おこし協力隊として働く、移住定住の支援団体『高田暮舎』です」

 東日本大震災のあと、ぐっと人口が減った陸前高田市。移住定住のための統括窓口が用意されておらず、情報の集約や移住者数の把握もできていなかった。こうした情報を一本化して移住定住に取り組もうと、「特定非営利活動法人高田暮舎」が設立されたのが2017年。移住定住促進のための相談窓口を設け、移住定住ポータルサイト「高田暮らし」や空き家バンクの運営、移住者コミュニティの形成など、さまざまな活動をしている。

 また、陸前高田市から地域おこし協力隊の活動支援業務を受託しており、松田さんと同じく、地域おこし協力隊として着任した人が複数在籍している。松田さんは「移住定住コンシェルジュ」として、移住を考えている人たちの相談や、実際に現地にきた移住希望者の案内を担当している。

高田市のシンボル的存在の「奇跡の一本松」。震災後、一度伐採され、保存処理が施されている

「2020年は70~80件くらい問い合わせがありました。新型コロナウイルスの影響もあり、現地での案内が気軽にできないので、オンラインで町のさまざまな場所を映しながら案内をしました。思いのほか好評でしたね」

 問い合わせが多くなった理由は、リモートワークになり会社に出社しなくてよくなったことと、地域からスカウトが届く移住スカウトサービス「SMOUT(スマウト)」からの流入だという。

 ほとんどは、陸前高田や岩手と関係のない人。なかには、震災のときにボランティアで関わっていたことがある人や、震災直後にできなかったことを震災後10年のタイミングでやりたいと考えている人もいるという。

 松田さん自身のケースでは、Uターンだったこともあり、陸前高田での暮らしについてはおおよそ想像がついていた。移動のために車の購入が必須だとか、家賃は相場より高いといったことを想定できたぶん、岩手に戻るハードルは低かった。

 陸前高田市は津波によって大きな被害を受けているため、平地に家は建てられない。結果、高台の土地代が高くなり、1Kのアパートの家賃も5万5000円から6万円と、東京近郊のベッドタウンと大差ない価格になっているのだ。

松田家ので育ったレタス。スーパーで買う必要がないほどの大豊作で、自然の恵みに感謝する日々

 高田暮舎が運営する陸前高田市の空き家バンクは、物件の間取り紹介だけでなく、この家だからこそ楽しめる過ごし方や、家主さんのおすすめポイントなどが書かれている。それは、「空き家の所有者」と「空き家の利用を希望する人」のマッチングを大切にし、不一致をなくすためでもある。

 たとえば、家主(所有者)が陸前高田から離れて生活していて家だけが残っていることもある。周りから見たら空き家でも、家主にとっては空き家ではなく自分の家なのだ。この人だったら貸し出しても大丈夫だと家主に思ってもらい、借りる人にも家のストーリーを知ったうえで、大切にしてもらえるようにマッチングしているそうだ。

「僕も今、家を借りているんです。最初は仮設住宅に住んでいたんですが、取り壊されることになって。お酒の席で、知り合いのおじさんに、仮設住宅を出なくちゃいけないので家はないかと聞いたら、ここを紹介してくれました」

 紹介で借りることとなった立派な一軒家には、松田さんと妻の二人で住んでいる。

 この家は震災前、地域でも面倒見のよさで有名だった女性が住んでいた。震災時は、ボランティアたちの宿泊場所にもなった。

「春夏秋冬、家の周りに花が咲くんです。亡くなったお母さんが庭を大事にされる方だったそうで、それが今でも残っているんです。雑草だと思って刈ろうとしたら花だったようで、花が好きな奥さんに怒られたこともあります(笑)」

妻がもらってきた野イチゴの苗も、立派な実をつけた。家の庭でいちごができるなんて、素敵すぎる

 地域おこし協力隊として着任する前は、町のために何かしなきゃ、仕事としてしっかり関わらなくちゃといった気持ちが強かった。

「この町の人が幸せかという漠然としたことより、隣のお父さんが楽しく暮らしているかとか、あの家のお母さんが困っていたら寄り添うとか、そういう身近にあることが一番大事なんじゃないかなって考えに変わってきました」。

 仕事をしたり地域で交流をしたりして、町をつくっているのは地元の人たち。みんなの思いをすべて拾うのは大変だが、広くアンテナを張れるようになった。この人と一緒に何かやりたい、自分ができなくてもこの人ならできるという意識で、町全体でやればいいという発想になれたのは、大きく成長できた部分だという。

「この町は廃れていく一方だという言葉の裏側で、地元の人たちは来てくれる人たちに期待しているんです。地元の人と、移住したいと考えている人との間でミスマッチが起こらないように、移住コンシェルジュとして等身大の陸前高田を、背伸びせず正直に伝えて町に人を迎えたいと思って活動しています」

夕日がオレンジ色に染めた陸前高田の海。この絶景も、家庭菜園で取れた野菜のおすそ分けも、街の日常だ

 移住は、何かを成し遂げたいとか前向きな理由だけじゃなくていいと話すのは、彼自身がUターンを決めた理由のひとつに「都会から逃げたい」という思いがあったからだ。

「普通に暮らすことは、大切だと思うんです。都会のよさもあれば、地方のよさもある。移住すれば何かを失うリスクだってあると思います。でも、その変化を、こんなもんだよねって気楽に考えてもらえたらいいなと思います」

 人口1万8000人ほどの陸前高田市。最初は“どこどこのお兄ちゃんだよね”と言われ、話しかけられるのにためらいがあったが今ではそれにも慣れた。彼が移住してから経過した時間の分、着実に“高田人”になってきているということだろう。

(構成/生活・文化編集部 清永愛)


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