「ひきこもりの季節」とは?/篠田節子著『四つの白昼夢』田中兆子さんによる書評を特別公開
思い込みは、気持ちよくひっくり返される
2024年初夏の現在、東京の街を歩く人の半数以上はマスクをしておらず、特に若者の多くはのびやかに顔をさらしている。コロナ禍の真っ只中に「マスクで顔を隠すことの安心感を覚えた若者は、もはやコロナが終わってもマスクを手放すことはないだろう」という言説がまことしやかに流れたが、その予想は見事に外れた。
とはいえ、マスクで顔を隠すことも隠さないことも同調圧力という同じ理由なのかもしれず、コロナ禍によって私たちの心性は変わったのか、それとも変わらなかったのか、今一度、立ち止まって考えてみたくなる。
そんな問いに大きなヒントを与えてくれるのが、篠田節子著『四つの白昼夢』である。
四つの中編が収められたこの作品は、コロナ禍が始まりやがて終息を迎える時代を背景に、ごく普通の人たちが暮らしのなかで遭遇したちょっと不思議な出来事が描かれている。どの作品にも謎解きの面白さがあり、ホラー、幻想、ぴりっとしたユーモアが盛り込まれ、最後にはこちらの思い込みを気持ちよくひっくり返してくれる結末が用意されている。
読者は一編ずつ読み終えるたび、鮮やかな白昼夢を見た後のように、目の前の風景や出来事がさっきまでとは少し違って見えるようになるだろう。そして、「××さんはこういう人である」と思い込んでいたあの人やこの人のことをふと思い出し、もしかしたら違う見方もできるかもしれないと、彼らとの過去に思いを馳せることもあるかもしれない。
巻頭の「屋根裏の散歩者」は、郊外にある自然通風の家に引っ越した三十代の夫婦が、夜になると天井から聞こえる物音に悩まされ、その音の正体に驚く話である。コロナ禍をきっかけに都心のマンションから郊外の一軒家に引っ越す人が増えたといわれているが、ここで描かれている、敷地で見つけた蕗や山椒やラズベリーを摘んでおいしくいただく生活は、たとえ音に悩まされていてもうらやましいと思うのは私だけだろうか。
二番目の「妻をめとらば才たけて」は、七十過ぎの元公務員が、再婚した妻の所有する豪華なマンションとは別に仕事場と称して場末のワンルームを借りて生活していたが、ある日、急死した妻の遺骨を電車の中に置いたまま音信不通になってしまい、その真意はいかに? という話。この物語は、退職した男三人がコロナ禍の緊急事態宣言の下、安居酒屋や仕事場のワンルームで、カロリーが高くてジャンクな身体に悪いつまみをお供に安酒をがんがん飲む場面が何とも痛快で楽しい。「政府と世間の言うことをきいて、閉門蟄居したまま枯死してたまるか」という一文に溜飲が下がる男性はきっと少なくないはずだ。
三番目の「多肉」は、コロナ禍によってレストラン経営が破綻した男が、アガベというサボテンのような多肉植物の栽培に夢中になる話。心やさしき読者ならば、この男の熱中のすさまじさに嫌悪を抱くかもしれない。しかし私は、これほどまでに人間の解放感を描き切れる篠田さんに惚れ惚れとした。且つ、「また以前のような、活発で前向きで万事にざわついた世界が戻ってくることを想像すると恐怖を覚えた」という彼の独白にひっそりと共感したことも告白しておきたい。コロナ禍はもう勘弁だが、あの静けさをどこかなつかしく思うのもまた事実なのである。
最後の「遺影」は、コロナの感染状況が収まり親戚たちが集まることになった義母の葬儀の際、遺影の肩になぜか人の手が写っているのがわかり、その手の正体は何なのかを探っていく話。この物語の主人公は、義母が施設に入るまでの八年間、仕事を辞めて介護に捧げた女性であり、彼女の介護の苦労や「神経にヤスリをかけられるような思い」が丁寧に描かれている。介護に関わっていた人、今も介護中の人が読めば、自分だけではないとなぐさめられるのではないだろうか。
コロナ禍というのは「誰もが引きこもっていた時期」であり、四つの物語にはどれも、「引きこもる」という行為によってあぶりだされたその人の本質が描かれている。
本作では、たとえ引きこもり続け、他人から見たら不幸としか思えない人であっても、同調圧力なんかにとらわれず自分の心の真実を追求しているならば、本人はじゅうぶん幸せであることを伝えている。また、人間を幸せにするのは人間だけではなく、人間以外の植物や動物や音楽だっていいのだと静かに語りかけている。
あなたはもっと自分を信じて自由に生きていい。
人生においても作家としても大ベテランの篠田さんの、おおらかなメッセージが込められている。