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「私は、もっと自らのおろかさを突き詰めた長井短の小説が読んでみたい」小説家・年森瑛さんによる『私は元気がありません』書評

 俳優、モデルとしても活躍されている長井短さん初の小説集『私は元気がありません』(朝日新聞出版)が2024年2月7日(水)に発売されました。『N/A』で話題を攫った小説家・年森瑛さんが、〈独特のバイブスがある文体で、舌に乗せたくなるような言葉たちが躍っている〉本作に〈個人の人生を物語るということへの矜持が感じられ〉た理由とは。刊行を記念して、「小説トリッパー」2024年春季号掲載の年森瑛さんによる本作の書評を公開いたします。

長井短『私は元気がありません』(朝日新聞出版)
長井短『私は元気がありません』(朝日新聞出版)

他者を物語るということ

 小説を書くことは、この上なく孤独な作業だ。

 寂しさに耐えかねた私は、同じく兼業作家のサハラさんと毎週末に作業通話をするようになった。一人称って難しくないですか、下手こくと「俺の名前は江戸川コナン、探偵さ!」状態になりますし、作家の腕が如実に出ますよね、みたいな話をしている。そこで思い返してみると、『私は元気がありません』の一人称は上手かった。これは長井短による初の小説集で、全三篇が収録されている。独特のバイブスがある文体で、舌に乗せたくなるような言葉たちが躍っているのだ。

 表題作「私は元気がありません」の語り手である雪は、吾郎という元セフレの彼氏と同棲している三十二歳の女性だ。吾郎が出張で家を一日留守にすると、雪は高校時代からの親友であるりっちゃんを呼んではよく二人で飲み明かしている。

 この日もりっちゃんが来る前、雪はあえて生活感が見えるようにリビングを荒らし始める。コートをソファにかけ、食卓机の上にチラシを置き、千駄ケ谷で買ったラクダのオブジェは寝室に移動させ、普段は電球色でつけている照明を昼白色に変更する等々。それから肝心の、熱海を旅行したときに撮った吾郎とのツーショット写真を壁から外して引き出しにしまう。彼女はこう考えている。〈親友に幸せな姿を見られることは、廊下でナプキン落とすみたいな気恥ずかしさがあるから〉この冒頭数ページだけで、雪にとってりっちゃんという人は「ちゃんとした生活を彼氏と築き上げている三十二歳女性っぽい自分」を知られたくない相手だと提示されるわけで、じゃあそんな二人がこの後どんな話をするのだろうと興味をそそられページをめくってしまう。まったく名探偵コナン化していない、お手本のような冒頭である。

 そして、おつまみと酒を持ってりっちゃんがやってくる。二人が話す内容は、高校時代からの思い出の録音再生ばかりだ。顔を合わせるたびに繰り返されるやり取りはもはや予定調和じみていて、台本通りに喋る役者のように決まりきった台詞の応酬が続いていく。この会話がいかにも内輪の人間だけ三割増しで笑いそうなしょうもない内容で、そこに現代口語劇的なリズムも相まって、二人の話すリビングが小劇場に作られたセットのようだ。

 雪とりっちゃんの二人は、元々はアミという同級生を加えた仲良し三人組だった。アミが交通事故で死んでから十年経った今でも、三人組だった頃のような振る舞いを二人は続けていた。無茶な飲酒、下世話な噂話、飛び交う暴言。どれも、三十二歳の二人の現実からは乖離しているにもかかわらず、きしみをあげる心と身体を無視して芝居を突き通す。その歪みを互いに指摘することもなく、これからも予定調和は続いていく、はずだった。飲み会のおひらき後、ツーショット写真を剥がしたままでいたせいで、浮気を疑った吾郎によって雪は問い詰められることになる。このあとに続く会話の緊迫感には、ああ、大人の恋人同士が腹を割って話し合おうとする時、それを片方がちょけて逃げようとする時、そして逃げ切れなかったとき、絶対こういう空気になるよな……と経験もないのに訳知り顔になってしまった。それくらい、リビングに漂う気まずい肌ざわりが生々しく感じ取れるのだ。

 浮気疑惑を解消したあとも、この際だから、と吾郎は今まで溜め込んでいた違和感を追及する。りっちゃんと遊んだあとの雪は必ず様子がおかしくなる。わざと明るく振る舞って、すごく表面的な、誰にでも通用するようなコミュニケーションを取っている。そもそもなんで、無理をしてまで元気なフリをするの? なんで本当の雪をねじ伏せてまで、変化することに抗うの? 吾郎の問いに、雪は〈アミが死んだからじゃないかな〉と答える。果たして、その言葉は本当なのだろうか。

 本作は、登場人物の過去を掘り返してトラウマやコンプレックスの原因に仕立て上げたり、人間の奥行きを無視して誰もが納得できるストーリーに押し込めたりはしない。個人の人生を物語るということへの矜持が感じられる作品だった。

 さて。この世で一番つまらない小説は、悪い小説ではなく、普通の小説だと思っている。可もなく不可もない、まあそうなるよね、くらいのことしか書いてない小説が一番つまらない。その点、長井短の小説は普通ではなかった。

 小説を書くとき、作家は自らのおろかさにうんざりするほど向き合うことになる。他者への想像力のなさを恥じて、幼稚な自己弁護を叩きのめして、目を逸らそうとする弱さを叱咤して、それでも残ってしまった、どうしても譲れなかったおろかさだけを小説に落としていく。他人にナイフを突きつけるつもりなら、何よりもまず自分を痛めつけなくてはならない。

 私は、もっと自らのおろかさを突き詰めた長井短の小説が読んでみたい。灼熱の中で打ち叩いてできた一振りの刀のような、隙間のないおろかさの結晶が読みたい。小説を書くのは孤独な作業だから、これは残酷な望みなのだろうけど、それでも身勝手な読者として、これからの長井短が今以上におろかな小説を書いてくれることを願っている。

■『私は元気がありません』冒頭は下記にて公開しています

■長井短さんの刊行に際してのエッセイはこちら

■書店員さんからのコメントはこちら

■長井短・著 『私は元気がありません』
■2024年2月7日(水)発売予定
■1760円(本体1600円+税10%)
■ISBN 978-4-02-251964-1
■内容紹介
なんでみんな平気なの?怖くないの?私は、自分のお気に入りの私から離れたくない。最高だったって瞬間を過去にしたくないの。
「長井短」にしか描けない言葉が躍る、恋と友情、怒りと怠惰の小説集。
変わりたくないというピュアな願いが行き着く生への恐怖を描いた表題作に加え、“アップデート”する時代についていけない女子高生が“暴力的”な恋に落ちる「万引きの国」、短編「ベストフレンド犬山」を収録。

長井短(ながい・みじか)
一九九三年生まれ、東京都出身。俳優、作家。雑誌、舞台、バラエティ番組、テレビドラマ、映画など幅広く活躍する。他の著書に『内緒にしといて』がある。小説集は本作が初となる。

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