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貫井徳郎著『迷宮遡行』の法月綸太郎さんによる解説を特別公開!

 2022年3月7日に発売となった貫井徳郎さんの『迷宮遡行』(朝日文庫)。突然、妻・絢子が失踪し、その理由がわからないまま、彼女の行方を追う失業中の迫水。人間の不確かさを描く、貫井徳郎作品ならではの魅力あふれる本作には、法月綸太郎さんによる解説が収録されています。その精緻な解説文を今回、特別に公開します。

貫井徳郎著『迷宮遡行』(朝日文庫)
貫井徳郎著『迷宮遡行』(朝日文庫)

 十年間勤めた不動産会社をクビになった迫水の許から、ある日突然、妻の絢子が家出する。「あなたとはやっていけなくなりました。ごめんなさい。私を捜さないでください」とだけ書いた置き手紙を残して。親友の後東に励まされ、妻を捜し出す決意を固めた迫水は、身寄りのない絢子の過去を知る歌舞伎町のバーテン新井をたずねるが、新井は何かに脅えているようで、話をした翌日には姿を消してしまう。絢子と新井が相次いで失踪したことに不審を覚え、新井の身辺を探ろうとする迫水の前に、やがて暴力団関係者らしき男たちの影がちらつき始める――。
 こんなふうにさわりを紹介すると、貫井徳郎のファンならおやっと思うかもしれない。前にどこかで読んだような話だな。旧作のお色直しなら、読まなくてもいいか、と。
 その反応は半分だけ正しくて、半分はまちがっている。だって、お色直しの間に花嫁が別人と入れ替わっているとしたら、それはもう別の結婚式でしょう?

 本書は、貫井徳郎が1994年に発表した長編『烙印』を全面改稿し、『迷宮遡行』という新たなタイトルを冠したものである。分量的には百枚ぐらい増えているが、その分だけ加筆した増補版というわけではない。作者はほとんど書き下ろしの新作と変わらない態度でリライトに取り組んでいるからだ。結果、まったく語り口のちがう長編に生まれ変わって、現時点での貫井の最新作と呼ぶにふさわしい仕上がりになっている。
 わざわざそういう手間のかかることをしたのは、作者の中でよほど心に期するものがあったにちがいない。早い話がリベンジである。そしてこのリベンジの一番のポイントは、『烙印』が貫井の第二長編であると同時に、プロとしての初仕事だったことだろう。
 新人作家にとって、二作目が勝負というのはよく言われることだが、華々しいデビューを飾った作家ほど、二作目にかかるプレッシャーは大きい。読者の注目度が上がっているし、プロとして先々のことも考えなければならない。しかも、デビュー作の成功がフロックでないことを証明するために、次作ではいっそう高いハードルをクリアすることを要求されるのだから。

 ウェブ上に連載している公開日記「ミステリー三昧、必殺三昧」の2000年3月31日の記述の中で、貫井は『烙印』を全面改稿するに至った経緯を述べている。それを読むと、デビュー作『慟哭』が絶賛を博したがゆえに、二作目を書き始める時のプレッシャーは並大抵のものではなかったようだ。
 よく知られているように、『慟哭』は第四回鮎川哲也賞の候補作となり、惜しくも受賞を逸したが、北村薫らの推挙を得て、いわば鳴り物入りで発表された作品である。幼女連続誘拐殺人を捜査する警察の活動と、新興宗教にのめり込んでいく男の物語をカットバック方式で描いた長編で、新人らしからぬ確かな筆力と見事なサプライズ・エンディングがミステリファンを驚嘆させたのは、あらためて言うまでもないことだろう。
 ところが、貫井は二作目において早くも路線変更を迫られたという。『慟哭』はシリーズ化できるような話ではないし、また一作目と同傾向のトリックを用いて作家イメージが固定することは、長い目で見れば得策ではない。「『慟哭』のトリックは不意打ちだからこそ効果があるもので、いつもそれをやってくると読者に身構えられたら驚きが半減する。それに対抗するためにどんどんトリックを複雑化させていくこともできるが、その方向性では泥沼に嵌ることは目に見えていた」からである。

 といって、別系統のトリックのストックもなかったので、いっそトリックを中心に据えないでプロットで意外性を導き出す話にしようと考えた。で、そのときに真っ先に思いついたのが、ロス・マクドナルドだったのである。そのため必然的に、物語のトーンもハードボイルドタッチになってしまったが、上記のとおりハードボイルドが書きたいと思って選択したわけではなかったのだ。

 こうした述懐に接すると、貫井徳郎という作家の創作に対するスタンスが、新本格派の確信犯的な様式信仰より、むしろ岡嶋二人や東野圭吾のような「綾辻以前」の本格作家のメンタリティに近いことがわかる。実際、三作目以降の貫井は、積極的に「岡嶋・東野的作風の九〇年代における後継者」というポジションを選び取っていくことになるのだが、それはさておき、『烙印』を世に問うた時点では、路線変更のもくろみはかえって裏目に出てしまう。「結果的にこの『烙印』は、『慟哭』を読んで面白いと思ってくれた読者の多くを満足させられなかったようである」として、貫井は次のように反省する。

 それはやはり完成度が低かったからだが、それだけでなくハードボイルドタッチであることも大きな理由だったはず。そのため、文庫化するなら全面的にハードボイルド臭を払拭しようと思っていた。さらに加えて、完成度を上げるためにはプロットの不備も繕わなければならない。すでにお読みいただいた方ならおわかりのとおり、意外性を演出するためにかなり無理無理なことをしているので、そこをなんとかしたかったのである。でもその二点を修正しようとすると、単なる改訂ではとても追いつかず、全面的に書き直さなければならない。そう、結論したわけ。

 この反省の弁に付け加えるとすれば、『慟哭』のインパクトがあまりに強烈だったために、読者から「叙述トリック派の新人」と認知されてしまった不幸もあるだろう。物語の背景に暴力団どうしの組織抗争という題材を選んだせいで、本格ファンがアレルギー反応を起こしたという側面もあるかもしれない。しかし「トリックを中心に据えないでプロットで意外性を導き出す話」を書こうとしたのは、決してまちがった判断ではなかったと思う。瑕瑾はあれど『烙印』のプロットはよく練られているし(題名のhomonymが事件の真相を暗示するヒントになっているところなど、心憎い趣向である)、貫井の作家的選択の正しさは、三作目以降の作品ではっきり証明されたはずである。
 むしろ作者にとっての最大の誤算は、語り手の性格を、感情を表に出さない「質問者」ないし「観察者」タイプに設定したことではないか。『烙印』の語り手は、辞職した警察官という経歴の持ち主で、家出した妻は冒頭で投身自殺したことになっている。ある意味では『慟哭』の延長線上にあるキャラクターだが、妻の自殺の動機を追い求める物語は、淡々とした「私」の一人称で綴られる。しかし『烙印』のクールな文体からは、肝心の妻への思いがほとんど読者に伝わってこないのである。これは単にハードボイルドタッチというより、もっと具体的にロス・マクドナルドの影響が悪い方に作用したと見るべきだろう。
 この『烙印』に限らず、貫井徳郎の小説のほとんどは、あるきっかけで無一物に等しい境遇に陥った主人公が、失われた「何か」を再発見するために、さまざまな人や出来事に出会っていく巡礼形式の物語になっている。失われた「何か」というのは、自分のアイデンティティそのものか、そうでなければ主人公にとってごく近しい「誰か」の存在であることが多い。つまり広い意味での自己回復の物語にほかならないわけだが、こうした物語の方向性に、リュウ・アーチャーに象徴される冷徹な「外部」のまなざしはそぐわない。「質問者」ないし「観察者」としての「私」は、そうした自己回復の可能性をあらかじめ断念するところから形成されたキャラクターなのだから。

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 ずいぶん回り道が長くなったが、ここからが本題である。
 全面改稿された『迷宮遡行』でもっとも目につくのは、語り手である迫水の性格と語り口の大幅な変更である。本書での迫水は、会社をリストラされた一般人(女房に逃げられた失業者)で、新たに採用されたのは「おれ」の一人称。さらに『烙印』の「私」が最後まで意固地なプライドに支配されているふうなのに対して、「おれ」は小心翼々たる小市民にすぎないことを最初から読者に隠そうとしない。
 道でチンピラに因縁をつけられただけで震え上がり、貧乏で交通費にも事欠くありさま、女房に逃げられた後は、コンビニのおにぎりとカップラーメンでかろうじて生きながらえている。唯一武器といえるのは、十年間の会社勤めで身についた営業トークぐらいのものだが、そもそも「おれ」が優秀な営業マンだったらリストラの憂き目に遭うはずもないので、それさえもあんまり頼りにならない。
 要するに、非常に情けない、へなちょこな男なのである。
 ところが、このへなちょこ男が「最愛の妻をわが手に取り戻す」という唯一の行動原理に従って、無一物の境遇から度重なる試練に立ち向かっていくのだから、物語が精彩を帯びてくるのは当然だろう。不完全燃焼に終わった感のある『烙印』のプロットが、今回ようやくそれに見合う主人公と文体を手に入れたといっても過言ではない。

『迷宮遡行』の語り口に関しては、もうひとつ特筆すべきポイントがある。いうまでもなく、文体にユーモアが導入されていることだ。
 これは我孫子武丸が『光と影の誘惑』(四六判)の解説で書いていたことのそのまま受け売りなのだが、「真面目で筆力のある貫井に欠けているものがあったとすれば、こういうユーモアでありペーソス――つまりは〝笑い〟や〝ゆとり〟だったと思うので」という指摘がある。『烙印』を全面的に書き直すに当たって、作者がいちばん心がけたのは、そうしたユーモアやペーソスを血であり、肉とする文体を作り上げることだったにちがいない。
 語り手の性格設定と相まって、この試みはかなりの成果を上げている。たとえば28章、絶体絶命の窮地に追い込まれた場面で、迫水が「あなららちりゃなかったんれすか?」と口走るところなど、今までの貫井ならけっして書きえなかった文章の呼吸だろう。本書を「貫井徳郎の最新作と呼ぶにふさわしい」と評した最大の理由もそこにある。

 最後に、作者がもうひとつの修正点として掲げているプロットの不備の改善について、駆け足で触れておこう。結論から先に言うと、貫井は『烙印』のハードボイルド臭を払拭すると同時に、「本格らしさ」に対する妙な気負いからも脱しつつあるように見える。それは「意外性を演出するためにかなり無理無理なことをしている」部分を、潔く削ってしまったところにも現れているのではないか。
 たしかに『烙印』を読んだ時、「無理無理な」印象は拭えなかった。ロス・マクドナルド風のトリックの処理のよしあしは別としても、解決編のサプライズを偏重しすぎたために、かえって迫水の妻(『烙印』では、綺子)の人物像にぶれが生じてしまったからである。今回の改稿では、そうしたギミックをあえてプロットから排し、「なぜ絢子は姿を消さなければならなかったのか?」という謎に焦点を絞った結果、ストーリーの不自然さが解消されて、謎と真相を結びつける物語の骨格がより鮮明になっている。「トリックを中心に据えないでプロットで意外性を導き出す話」という当初のもくろみは、全面的な書き直しによって、ほぼ達成されたといっていいだろう。
 こういうスタンスが可能になったのは、近年の「明詞」シリーズ(『鬼流殺生祭』『妖奇切断譜』)や『プリズム』といった、いかにも「本格らしい」作品を世に出したことによって、作者自身、ジャンルとの距離感を整理することができたからではないか。そういう意味でも、本書はこれまでの貫井の歩みを踏まえた作品になっている。
『烙印』の時点では、ほとんど血肉の備わっていなかった迫水の妻の描写が、スケッチ風の回想をはさむことで、具体的な顔と性格を持つようになった点についても、同様の指摘ができるはずである。これは「結婚にまつわる八つの風景」というサブタイトルを持つ短編集『崩れる』を発表した後だからこそ、書けるようになったエピソードだと思うし、いい意味での〝ゆとり〟も感じさせる。こうした人物像の変更を経た『迷宮遡行』の結末は、『烙印』のそれとはまったく別のものになっているが、いずれの結末がより深く読者の胸を打つか、ここであらためて書くまでもないことだろう。

(註)文中で引用した日記は、貫井徳郎のホームページ“The Room for Junkies of Mystery And Hissatsu”(http://www.hi-ho.ne.jp/nukui/)に掲載されたもの。

*新潮文庫版に掲載された解説を再録しています。
 なお(註)のホームページは“He Wailed〈Tokuro Nukui Official site〉”にリニューアルされており、当時の日記は読めなくなっています。

*書店員である新井見枝香さんによる解説も併録されています。


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