太田和彦が呑んだ“北海道” 炉端焼が基本で何よりもビールが旨いワケ
【北海道】ビールと炉端焼
明治から本格的な開拓の始まった北海道は、農業の歴史が浅く、米が恒常的に収穫できるには年月がかかった。そのため日本酒生産が始まったのも遅い。しかし近年は安定した米生産地になり、地元米を使った吟醸酒なども作られるようになった。
一方、明治9(1876)年、官営の開拓使麦酒醸造所として始まったビール製造は、薩摩藩英国留学生としてロンドン大学に学んだ村橋久成の指揮により、農産物加工の近代産業として発展。日本のビールの歴史は北海道にあり、居酒屋はビールの扱いに慣れ、どこで飲んでも確実に内地よりうまい。
江戸時代まで本格的な開拓はされなかった北海道は、原野を農業に切り開く苦難はあったものの、内地のしがらみを嫌った意欲ある開拓者によりフロンティアの合理精神が進取独立の気風を育てた。日本一広い土地ながら、居酒屋はどこに行っても自由の風が吹き、来道者を偏見なく迎えるウェルカムな姿勢は、しばし西欧の酒場やパブで飲んでいるような気分がある。
居酒屋の基本形は「炉端焼」で、特に釧路はほとんどがこの形態だ。畳一畳もある大きな囲炉裏に特製の大網をのせ、真っ赤に熾った炭火で、魚介(ホッケ、タラ、シシャモ、コマイ、イカ、カニ、牡蠣き、北寄貝)も、野菜(アスパラ、じゃがいも、山菜)も、肉(ラム、鹿、豚)もなんでも焼いて食べる。自分の注文したものが目の前で次第に焼けてくるのを、一杯やって待つのはよいものだ。釧路の老舗店「炉ばた」の囲炉裏前に40年以上も座る大学みつさんに焼き方のコツを聞くと「ひっくり反すのは一回だけ、その見極め」と答えていた。
北海道に炉端焼の多い訳は、食材が良いので下手にいじらず焼くのが一番、あるいはまだ料理文化が進んでいない、などの説があるが私の見方はちがう。
20年以上も前、釧路市郊外、鳥取神社隣りの、鳥取入植者の歴史を展示する「鳥取百年館」を訪ねた。明治17(1884)年、鳥取賀露港を出港した鳥取士族36戸は6日後釧路に到着。先発5戸と合流し207人が「鳥取村」を創設した。その一角にある最も初期の住居小屋の見取り図は、間取りを単純に三つに分け、一つは土間、一つは居間、一つは寝間とし、居間には土間に向けて暖をとり煮炊きする3尺×6尺の大きな炉が必ず切られていた。
これが炉端だ。極寒の地で外から帰り、まずほっとするのは赤々と燃える火だ。また人を迎える最大のもてなしも火だ。燃える火こそが命のあかしだ。そこに料理があるのは安心の根本になる。すなわちこれが炉端焼のルーツではないか。炉端は風土に根ざし、そこの人々に本能的な安心感を抱かせるものと知った。
酒もまた、小さな徳利でお燗してを待っていられない。炉端焼の店は火の近くの大きなヤカンにつねに適温で酒が温まり、注文すると十秒で茶碗に注いで出される。それをきゅーっとやってまずは温まり、炉端に手をあててほっとひと息いれる。かけつけ3杯とはこのこと。冷や酒は北海道に合わず、あまり注文する人もいない。暖房がゆきとどいた現代でも火を見ながらのビールが格別なのは理由がある。
魚豊富な北海道だが、現地の人は刺身はほとんど食べず、開いて干物にするのは長い冬の保存食が基本だからだ。また北海道の人はアウトドア慣れしていて、気軽に外でジンギスカン焼をする。ジンギスカンという料理はモンゴルにはないが、第1次大戦中軍服用に羊毛を大量に供出し、余った羊肉を焼いて食べたのが始まりという。ちまちました包丁細工の刺身にあきたらない大陸的感覚といえよう。
また北海道の人がじゃがいもに特別の気持ちを持つのは、長い間米は食べられず、日々、じゃがいもで命をつないだからだ。それはスコットランドの人が、塩害の地を何代もかけて農地改良し、最初に収穫できたのがじゃがいもで、それゆえフライドポテトを特別視するのに似ている。北海道じゃがいも食のおかずは越冬用に桶いっぱい作っておく塩辛だけ。バターは生産しているが高価で手が出ず、そのかわり塩辛をのせて食べた。
火の燃えるストーブはつねに人々の真ん中にあり、釧路の炉端焼居酒屋で、ちぎった新聞紙にいか塩辛をのせてストーブで焼く<塩辛の新聞紙焼>は、朝日新聞や読売はダメで、道新(北海道新聞)でないといい味にならないといううれしい話を聞いた。