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【大河ドラマ「どうする家康」をウラ読み】天下人・豊臣秀吉の正室おねねの生涯を描いた、傑作歴史小説『王者の妻』復刊!大矢博子氏による文庫解説を特別公開

 今年1月にご逝去された歴史小説家・永井路子さんの傑作歴史小説『王者の妻 上・下』(朝日文庫)が発売になりました。一介の草履とりから天下人に出世した豊臣秀吉とその秀吉に14歳で嫁いだ妻おねね。仲睦まじい夫婦でしたが、本能寺の変以後、権力を握った秀吉の女性遍歴に苦しめられます。豊臣家の滅亡まで見届けたおねねは、最後まで庶民的な性格を失わず、戦国の乱世を逞しく生き抜きました。著者の代表的な長編歴史小説の復刊によせて、文芸評論家・大矢博子氏による文庫解説を特別に公開します。

歴史小説家・永井路子さんの傑作歴史小説『王者の妻 上・下』(朝日文庫)

 今年(2023年)1月、永井路子さんが亡くなられた。

 ――という一文からこの解説を書き始めねばならないのが、とても残念だ。享年97は一般には大往生と言えるかもしれないが、永井さんに関してはもっともっと作品を読みたかった、考えを聞かせて欲しかったという思いが拭えない。それはひとえに、彼女が常に歴史に新たな視点を与えてくれる作家だったからだ。

 来歴やデビューの経緯については前掲の尾崎秀樹先生の紹介に詳しいので割愛するが、男性作家が大半だった歴史小説の世界に於いて、有吉佐和子や杉本苑子らとともに女性視点の歴史小説という分野を切り拓いた功績は極めて大きい。

 ここで言う女性視点とは、作家が女性という意味ではなく、女性を主人公とした歴史小説を指す。武将も志士も男性なので自然と歴史小説は男性主人公のものが多くなるのだが、当時の女性の目から歴史を再構築してみせたのが彼女たちだった。有吉佐和子の言葉を借りれば、男性の歴史=his + storyに対して、女性の歴史=her + story である。

 歴史小説の主人公になるような男たちの近くには、母、妻、娘、側室から使用人に至るまで必ず女がいる。そしてその女性が見る歴史は、男性の見るそれとは違っている。その筆頭は、日本三大悪女と呼ばれた中のひとりである北条政子を、子どもたちを守ろうとする母性の人として描いた『北条政子』(1969年)で、その視点は(彼女は北条義時の指示で動いていたということも含め)当時はとても新鮮なものだった。

 その次に著者が手がけた歴史小説が本書『王者の妻』(1971年)である。

 女性主人公で歴史を描くというと、愛憎などの情に偏ったメロドラマを連想される読者がいるかもしれないので、そこははっきり「違う」とお断りしておかねばならない。もちろん、恋愛や嫉妬といった情も重要な要素ではある。しかし永井路子の小説の本分は、これまで主要な扱いを受けてこなかった「主人公の傍の女性」に語らせることで、従来の人物像や事件に別角度から光を当て、歴史を見直す点にある。それを可能にしたのが、膨大な史料の精査だ。

 たとえば、本書の主人公、おねねである。

 織田信長の草履取りから始めたという軽輩の木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)に嫁ぐ。祝言は土間に藁を敷き、その上に筵を敷いてという粗末なものだった。けれどそこから夫は順調に出世していき、ついには関白まで上り詰める。おねねも、しがないお弓衆頭の養女から従一位という押しも押されもせぬファーストレディへと出世する。

 その過程でのふたりの対比が本書の鍵だ。

 女を囲い、ライバルを蹴散らし、関白、太閤となってからは大言壮語が甚だしくなる秀吉。尾張の百姓の子だということはみんな知っているのに、祖父は実は公家だったとか、あまつさえ自分は天皇の落胤だとまで言い出す。実子可愛さに、関白を譲った甥の秀次を自害に追い込み、その一族郎党まで残酷に殺す。世界情勢もわからぬままに明国に出兵し、勝てると思っている。主君である信長の遺児や弟を冷遇しておきながら、自分の息子のことはくれぐれも頼むと遺言する。

 おねねは言う。「正気の沙汰とは思えませぬ」と。

 令和の今でこそ、晩年の秀吉については否定的に描くドラマや小説が多いが、本書が書かれた昭和四十年代は、今より秀吉人気が高かった。明るくて、誰からも好かれる人たらしで、才覚で貧農から天下人まで上り詰めたという出世譚が、高度経済成長期の日本に丁度よくはまったのだ。戦中までは徳川を倒した明治政府の流れを汲んだ教育だったため、徳川と敵対した豊臣を持ち上げる風潮もあった。

 そんな英雄・秀吉を、永井路子は「正気の沙汰とは思えませぬ」と妻に言わせたのだ。妻の目から夫が壊れていく様子を活写し、人間崩壊とまで書いたのだ。

 では、おねねはどうか。自らの身分に酔って軽輩だった過去までなかったことにしようとする夫とは反対に、おねねはずっと変わらなかった。豪華な城に住み、きれいな裲襠を着ても、「自分の結婚式は藁の上だった」と話して笑い、輿を面倒がって歩く。本書では便宜上標準語で書かれているが、実際は尾張弁で秀吉とケンカをしていたという。

 おねねの中身が庶民のままだった、というのは決して著者の創作ではない。その傍証となるのが上巻で、信長に秀吉の浮気を訴え、信長から「こん五たうたん」の文を貰うくだりである。

 考えてみていただきたい。武家の結婚は政略的なのが当たり前のこの時代、大名の正室が夫の浮気を夫の上司に訴えるなど、本来はありえないのだ。作中でも我に返ったおねねが「これでは町屋の女房と同じ」と反省する。だが信長からの文が現存している以上、おねねが夫の浮気を上司に訴えたことは史実なわけで、こういう史料から著者は「おねねの中身は庶民だった」という解釈を作り上げていったのである。だからこそ、秀吉との対比が光るのだ。

 また、関ヶ原でなぜ小早川秀秋が裏切ったのか。秀吉の子飼いだった加藤清正や福島正則がなぜ徳川方についたのか。石田三成憎しで語られることの多かったこれらの謎も、おねねと彼らの関係を軸に考えれば実にすんなり筋が通る。関ヶ原は豊臣(石田)と徳川の戦いであるとともに、茶々とおねねの戦いでもあったということのなんたる説得力か。

 女性の視点で歴史を再構築する、とはこういうことだ。

 そんな史料から読み解いた解釈の上に、情の描写を載せてくる。たとえば大坂の陣が始まったとき、おねねが茶々に会いに行こうとする場面がある。これも史料にあるのだそうだ。憎き茶々など滅ぼされるに任せておけばいいじゃないか、と思うが、おねねは実際に大坂城へ向かった。なぜか。

 おねねの行動は史料でわかる。だが心まではわからない。そこからが小説の出番だ。それまで積み重ねてきたおねねの葛藤や悩みや諦めがヒントになる。

 おねねには子がいなかった。一方、茶々は我が子のことだけを考え、国を傾けた。子どもを持たないおねねにとって茶々の姿は、もし自分に子がいたらこうなっていたのではという「もうひとりの自分」に見えたのではないだろうか。だから助けたかったのではないだろうか。茶々もまた、悲運な「王者の妻」なのである。

 これは私の解釈に過ぎない。読者それぞれにぜひおねねの心情を想像してみていただきたい。それこそが史料ではない、小説の持つ醍醐味だ。

 なお、些細なことではあるが念の為。現在では秀吉の正室の名前は「おね」と表記されることが多い。だが永井路子は、本書を修正する機会は幾度となくありながら、おねねで通している。本人のエッセイや講演録によれば、「お」は親愛の敬称なので、そうすると名前が「ね」一字になるのはおかしい、「ねね」は「ねんね」という小さな子を愛でるときの表現であり、それがそのまま名前になった(妹は赤子を意味する「やや」である)と考えた方が筋が通るとして、おねねのままにした由。細部に至るまで考証を重ねて自分が納得したことのみを書くという永井路子の姿勢がよく現れたエピソードではないか。

 このあと、著者は女性視点の歴史小説を次々と生み出す。尾崎先生の解説で触れられていないものを挙げると、『流星 お市の方』(1979)、日野富子を主人公にした『銀の館』(1980)、『山霧 毛利元就の妻』(1992)、今川の尼城主と呼ばれた寿桂尼を描く『姫の戦国』(1994)などなど。ぜひ手を伸ばしていただきたい。それまでの印象を覆す歴史の新たな面に出会えるはずだ。

 また、歴史エッセイもいい。本書にもところどころ著者が顔を出して、当時の人々を今の世(といっても50年前だが)に喩えてくれる場面があり、親しみやすくなっているが、エッセイは全編あの調子である。『歴史をさわがせた女たち 日本篇』(朝日文庫)、『美女たちの日本史』(中公文庫)、『日本夫婦げんか考』(中公文庫)などの他に、同時代を共に走った盟友・杉本苑子との対談集『ごめんあそばせ独断日本史』(中公文庫)はふたりの軽やかにして時々毒を含んだ会話がなんとも楽しい。

 もはや新たな作品を読むことは叶わないが、毎年の大河ドラマを観るたびに、現代の作家の歴史小説を読むたびに、「永井路子はどう書いてるかな?」と折に触れてページをめくりたくなる。そんな作品を多く残してくれたことに、感謝は尽きない。

 永井さん、ありがとうございました。


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