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「小説についてはいつも孤独という言葉で考えています」/町屋良平さんによる江國香織インタビューを特別公開!

 江國香織さんの最新刊『川のある街』(朝日新聞出版)をめぐって、芥川賞作家の町屋良平さんがインタビューしました。『冷静と情熱のあいだ』以来、長く江國さんの小説を愛読してきたという町屋さん。作品の変遷と執筆スタイルの変化、本作で試みられている方法に至るまで、「読むこと」と「書くこと」の本質に迫るインタビューを特別掲載します。 

江國香織『川のある街』(朝日新聞出版)
江國香織『川のある街』(朝日新聞出版)

言葉の要請から物語が生まれる

■街そのものを描くということ

町屋:江國さんの作品を読んだのは『冷静と情熱のあいだ』が最初で、実はそれが私の文学体験のほとんど原点に近いものでした。もちろんそこに書かれている世界は高校生の私には経験したことのないものだったのですが、読み終わったあとにグッと引き込まれていた自分に気づき、しばらく興奮を抑えられなかったのを覚えています。どんどん日本の小説を読めるようになったのは、それからでした。以来、江國さんの小説をずっと好きで読んできた人間の個人的な感想から始めさせてください。

 新作の『川のある街』は、起伏のある物語がアクロバティックに展開されている小説というわけではありません。にもかかわらず、読みながら激しい感情の揺れ動きが私のなかで起きているのを感じました。それも、悲しいとか嬉しいとかいった既に名付けられた感情ではない、この物語を通じてしか得られないような昂りです。それらが押し寄せてきて心が強く揺さぶられる感覚がありました。例えばそれは『ちょうちんそで』を読んだときの感覚に近いような気もします。

 三つの作品で構成されるこの小説には、それぞれ異なる川の近くの街に暮らしている登場人物たちとその生活が描かれていますよね。「街を描く」ことについては書き始める前の着想段階からあったテーマだったのでしょうか?

江國:嬉しい感想、ありがとうございます。そうですね。街を中心に書くことは編集者の方から提案していただきました。ただ、最初の段階では街を描写するというよりも、その場所にインスパイアされた小説にしようと考えてました。だから三編とも作品の舞台となるのはぜんぶ知らない街にしようと思ったんです。

町屋:ということは、作品に出てくる街は三つとも江國さんにとってまったくゆかりのない土地なんですか?

江國:ええ。三編とも構想段階では訪れたことがない街です。実際に書く段階になって、一編目と二編目の街には足を運んでいますが、知らない街を描くことで、そこから物語をもらえたらという気持ちで書きはじめました。

町屋:思い入れのなさが逆に功を奏したわけですね。

江國:はい。たしかに思い入れのなさは大事だったかもしれません。好きな街、訪れたことがある場所だと、どうしてもイメージが自分のなかにできあがってる状態で書くことになりますから、自分には関係のない街、でも登場人物たちにとっては思い入れのある街を書くということが今回の試みでした。

町屋:その距離感がすごく面白いと思いました。読んでいて、作者がまるで住んだことがあるような細部の描き方がされているのに、べったりとした感じはしない。ただここに街があるという質感のみが浮かび上がっている。特にアムステルダムが描かれる三つ目の作品からは、愛着があるだけではこういう書き方はできないんじゃないか、という感覚を抱きました。視点人物の芙美子は亡くなった同性のパートナーとそこでずっと暮らしてきたので、彼女にとっては離れがたいほどに大切な街のはずです。しかし、読んでいてどこか作者と街との間に距離があるような感じがする。それに気づいたときに感情の不思議な昂揚を覚えました。

 江國さんは初期の頃、物語に重きを置くような作風だったと個人的には思っています。ただ、『ウエハースの椅子』を書かれたあたりからでしょうか、それが少しずつ変化していった気がするんですね。江國さんの意識が物語から言葉の方に移ろっていったんじゃないか。勝手ながらそんなことを感じていました。でも、四年前に『去年の雪』を書かれた頃からまた変化を感じ始めていて、今度は世界そのものを描くことに挑んでいると感じるようになりました。最近の江國さんの作品は登場人物がとにかくたくさん出てきますよね。『去年の雪』を頂点に『すばる』で連載中の「外の世界の話を聞かせて」などでも、江國さんはたくさんの人物を登場させていて、世界そのものがよりはっきりと描かれるようになった気がするんです。今回の作品でも登場人物は多い方だと思います。

江國:そうなんですよね。自分では相変わらず同じような書き方をしてるなって思ってるんですが、気づいたら登場人物がやたらと増えていました。増やすだけ増やして、野放しにしていると言いますか(笑)。その感じが加速してますね、最近は。

町屋:『川のある街』に関しては街という題材の規模感と登場する人物の数がちょうどよく均衡しているように思いました。広がりすぎないようにすることを意識されたのでしょうか?

江國:今回も特に登場人物を少なくしようとは思いませんでした。きっと原稿用紙換算で一〇〇枚の作品を三つ書くことがポイントだったのではないかなと思います。長編小説に取りかかるときって、ボリュームを決めずに書きはじめるものですから、世界を際限なく広げることができますよね。だけど、今回は一編の枚数が一〇〇枚と決まっていたので広がりすぎることはありませんでした。

町屋:私は、一〇〇枚から一五〇枚の小説って特別なバランス感覚が必要だからかえって難しいと思ってしまうんですけど、江國さんはそんなことはありませんか?

江國:実は一〇〇枚くらいのボリュームってあまり書いたことがなかったんですよ。だから難しいのかどうかもわかりませんでした。ただ、この三編は書いていてすごく楽しかった。町屋さんがおっしゃったように、一〇〇枚くらいの中編って長編とも短編とも違うんですよね。もちろん長編には長編の面白さ、短編には短編の楽しみ方があるとは思います。ただ、例えば、短編はひとつ書いただけでは少し物足りなさを感じてしまう。一〇〇枚という規模の作品は書き終わって満足できる、ちょうどいい分量ということに気づきました。

 そして、街を書きませんかと提案していただけたのも、運が良かったと思います。実際に足を運んでみたら街がとてもいいものを見せてくれました。そのおかげでどの章も一〇〇枚を一ヶ月で書けたんですよね。

町屋:江國さんの一〇〇枚前後の作品をもっと読みたいなって思いました。短編も素晴らしい作品ばかりなので、いつも素敵だなと思いながら読んでいるのですが、一〇〇枚あればいったん完結されたものをそこに見つけることができるんですね。一編読み終えるごとに、かたちあるものが残っていく感覚がすごく新鮮でした。

江國:短編はその世界にちょっと遊びに行く感じなんですよね。もちろん短編で一生忘れられなくなるような世界を見せてくれる作品もあります。梶井基次郎の「檸檬」とか芥川龍之介の「蜜柑」とか。梶井が書いた、京都の果物屋で檸檬を買う場面、その檸檬を丸善の本棚から引き抜いた画集の上に置く場面は今もはっきりと覚えているけれど、でも、だからといってあの京都の街に住んだ気持ちにはならないですよね。長編だと行ったことがない国でも、読んでいる間は住んでいるような気分になります。遊びに行くだけではなくてゆっくり滞在しながら、そこから生活が生まれてくる感覚を作れるのは、一〇〇枚あたりからなのではないかと今回思いました。

■文章の「臭」があることの強み

町屋:この作品は街の質感がそれぞれ違うかたちで表現されているのが見事だと感じました。例えば、最初の作品は小学三年生の望子の視点で語られますが、彼女の耳にはあちこちで交わされる大人たちの会話がはっきりと飛び込んでくる。望子はまだ小さいからその内容や意味はわからないけど、完璧に聞こえていて、ときには子どもならではの驚きかたもする。街の情景のなかに他者の会話がボコッと入ってくる感覚がすごく新鮮でした。

 ふたつ目の中編ではカラスたちの意識が書かれます。街ってよく考えれば不思議で、住民や家族のコミュニティを描いただけでは街にはならないんですよね。かといって、人間や森羅万象のすべてを描こうとすると、今度は街ではなく世界になってしまう。その中間を一〇〇枚で描くときに、カラスの視点を入れたのは面白いし、なるほどとも思いました。最後の作品では、老いゆく芙美子の認識が世界とズレてしまっています。だけど、彼女の意識のなかには思い入れのあるアムステルダムの街が強固に存在している。それぞれの作品で、それぞれに違いかつ小説にしかできない言語表現で街という構築物が形づくられていて、そのことに私は強く感動しました。

 さっきご自分では同じ書き方をしているとおっしゃっていましたが、私は江國さんって文章強度をまったく落とすことなく、同時にいつも新しい書き方にチャレンジしている方だと思っていて、そこに勝手にシンパシーを感じています。その点で、私のなかでは江國さんはヴァージニア・ウルフと近いタイプの作家と感じています。私はヴァージニア・ウルフはコンセプチュアルな小説家だと思っていて、江國さんも私は同様に感じています。ただ、江國さんは、かつて阿部和重さんの『和子の部屋』という対談本のなかでコンセプトは嫌いだとお話しされていました。そのお気持ちは今でも変わらないですか。

江國:そうですね。コンセプトは基本的に嫌いです。ただ、新しいものを書きたいという気持ちは小説家としてデビューしたばかりの頃からずっとありました。冒険をしているとは自分では思わないけれど、毎回、違うものに挑戦したいと思っています。でも、なぜかいつも同じ作風だって言われますけどね。
町屋:「いつも同じ」というのは作家の強みだと私は思っています。長く書き続けている小説家は誰であれ、みんなそう思われるものなんじゃないでしょうか。読者として読んでいても、この人は常に自分のやり方を貫き通しているなと感じられる作家は多いですよね。

江國:それはそれでまた素敵ですよね。私、漫画の『サザエさん』が大好きなんですが、あの作品はいつも同じだからいいんですよ。同じというのは作品の内容じゃなくて、世界観やそこから手にすることのできる安心感のことです。あの家族に深刻な命の危機はやってこないだろうし、不倫とかも起こらない。せいぜい満員電車のなかで他人の口紅がシャツについちゃって怒られるくらい。『サザエさん』に代表されるような、ページをめくれば間違いなく彼らに会える、今日も元気に幸せな生活を営んでいる姿が見られる、そんな作品を書ける作家性はすごく貴重なものだと思っています。

 その意味で、私は庄野潤三さんの作品も大好きで、庄野さんもある時期からご自分の家族のことをずっと書き続けてこられていて、お墓参りに行った、子どもが小学校に入った、卒業した、中学校に進学した、と同じ世界をずっと書き続けています。庄野さんの作品に触れると、そこにいつまでもいたいと思わせてくれる。そういう作家のあり方を心から尊敬している一方、自分で書くときには新しいものを書きたいと常に思っています。

町屋:新しいことにチャレンジしているつもりでも、いつまでも変わらないと思われるのは私も近いところがあるかもしれません。私は自分の色みたいなものがよく分かっていないし信じられないので、毎回、新しい色を出そうとするんですけど。

江國:わかります。私はそれを井上荒野さんとの間で「臭」問題と呼んでいます。「臭」というのは文章の臭いみたいなもので、私と荒野さんは「臭」が強いと思われるみたいです。例えば、昔、作家や編集者たちと集まって「作文ゲーム」という遊びをよくやってたんですね。お題が出されて、短い文章をみんなで書いて、誰の文章かを当て合うゲームです。そうするとね、私と荒野さんだけ簡単に当てられちゃうんですよ(笑)。

町屋:名前を隠してても見抜かれちゃうんですね(笑)。

江國:そう。なぜかすぐに当てられてしまう。悔しいからそのうち「たばかる」ってことをやり始めました。たばかって私が荒野さんっぽく書いたり、荒野さんが私の文章の真似をしたり。男の人の文章っぽく書いてみたりもしました。でも、いろいろやっても、これは荒野をよそおって書いた江國だろうってすぐバレてしまう(笑)。もちろんそれが強みにもなることはわかっています。そんな私たちの文章の呼吸や癖を好きだって言ってくれる人もいますから。

 ただ、もっと外側に行きたいのにそこから逃げられないのはどうしたらいいんだろうって思うこともあります。私の表現や文章の気配がいいとか、ひらがなの使い方がいいと言ってもらえることはとても嬉しいし、ありがたいんですが、そこから離れて勝負してみたいと思うこともある。でも難しいですね。やっぱり「臭」はコントロールできないものですから。

町屋:「臭」がアンコントローラブルだというのはすごくよくわかります。

江國:町屋さんも「臭」系の小説家ですよね。

町屋:恐れ入ります(笑)。私も作中で他者の文体を取り入れることを試してみたりするのですが、途中でやっぱりうまくいかなくなることが多いです。身体が集中していると、否応なく「臭」の方に向かっていってしまうんですよね。私の作品は文体や身体性に着目して評されることがあるんですけど、自分ではそんな自覚がまったくなくて。つくづく「臭」はコントロールできないものなんだなといつも思い知らされています。

江國:そうなんですよね。だから、もしかするとさっきのコンセプトが嫌いっていうのは、「臭」のないものを書くというコンセプトへの憧れの裏返しなのかもしれませんね。身体から滲み出る「臭」を排除して、頭で計画した通りに理知的に、論理的に書きたい。その憧れは強いんですが、自分には難しいんだろうなと感じています。それに加えて、私は先がわかった状態で書くことを楽しめないんです。ここに着地するぞって思いながら書いていても、途中でつまらなくなってしまう。だからとりあえず飛び込んで、物語が向かうべき方向に進むようにもがくようにして書くほうが自分にはあってると思っています。

町屋:確かにその先に何があるかわかっている冒険のほうが安心できます。でも、あっ、この小説はこういうものなんだって安心してしまった途端に飽きてしまうのは私も同じです。やっぱり小説を書いている人間からすれば、読者の方にも一緒に冒険してほしいという気持ちがあります。

江國:わかります。私も同感ですね。

■小説のなかで擬似体験をすること

町屋:先ほど江國さんは清潔な文章への憧れがあるとおっしゃいました。そういった自分のいつもの書き方とは別のものへの視座には批評性が多分に含まれるものだと私は考えています。「臭」という言葉で表されるような確かな個性を文章の内側に持ちながら、江國さんが、今作で街という全体を見通す大きな目がなければ成立し得ない構築物を作り上げたこと自体が一種の批評的な試みなのではないかと思うんです。

 私は江國さんが選考委員を務められている文学賞の選評は大体読んでいるのですが、江國さんは非常に読み巧者な方でもあると思っています。他者の小説への鋭い視座を持っていらっしゃって、自分とタイプの異なる作品でも積極的に評価されていることにいつも感心させられています。江國さんの小説を読むとこの人は書くために生まれてきたんだなと思わされるんですが、選評からは読むことが好きだという気持ちがありありと伝わってくるんですよね。そんな書くことと読むことをめぐる江國さんの両輪が、「臭」が維持されつつ批評性に富む『川のある街』の読み口につながっている気がしました。

江國:選評まで読んでくださってるなんて、すごく嬉しいです。読むのに上手いも下手もないと思うのですが、私は確かに書くことよりも読むことのほうに自信があったりします。でも、それがいいことなのかどうかわかんないですけど(笑)。

町屋:江國さんの読む力には批評的なものを感じるんですが、それが今作に活かされている気がするんです。コンセプトに染まり切らない、「臭」にも頼り切らない、その中間地点で書き続ける。そんな江國さんの意志がコンセプトに抵抗しながらコンセプチュアルな小説が成立するという挑戦を可能としている気がして、そこに私はウルフとの共通点を感じました。ウルフはバランス感覚に長けた一面もあって、けしてコンセプトだけの作品を肯定しているとは思えない部分もありますので。

江國:町屋さんのおっしゃるように、今作は「川のある街」を三つ並べるというアイディア自体がコンセプチュアルな試みだと言えますよね。また、ひとつ目の中編では子ども、ふたつ目で複数の登場人物、三つ目では老人を視点人物に置くという構成もある意味ではコンセプト的なものかもしれません。

町屋:でも、コンセプトに堕しているわけでもないというか。登場人物たちが小説的企図に抑圧されずに自由に生きている感じもちゃんとあるんですよね。その上で批評的まとまりもあって、それが読んでいてとても面白かったです。

江國:「川のある街」というタイトルはひとつ目の中編を書いたときにつけたものなんです。二作目はまた別の書き方をしようと思ったのですが、書いてみて、やっぱり川のある街だなと思って「川のある街Ⅱ」とつけました。でも、そのときにコンセプト寄りになるかもしれないという恐怖は確かにあったんです。それを自然と避ける癖がついているので躊躇したのですが、この小説はそういうふうに書きたかったし、全体が割とひっそりしたものだから大丈夫だと思って、踏み切りました。

町屋:ひっそりしたものというのはその通りですね。登場人物たちが物語にとらわれず、ただ生きている。そこがすごくいいなと思いました。ひとつ目の章で、望子が友だちの美津喜ちゃんと木の枝をゴボウに見立てて遊ぶ場面がありますよね。お互い少し離れて立って、同時に木の枝を投げてぶつかったら成功。外れたら相手に向かって飛んでいってしまうから失敗。とてもスリリングな遊びなんですが、二人が全身で楽しんでいるのが伝わってくる、私の好きな場面のひとつです。あそこはご自身の記憶を振り返って書いているのですか?

江國:いえ、私自身はああいう遊びをしたことはありません。ただ、小さい頃って友だちといると、自然発生的に新しい遊びが生まれたりするじゃないですか。あのゴボウの遊びは私が今回作ったものなんですが、自分でも書いているうちに彼女たちが自然と始めてくれたような気がしました。覚えていないけど、似たようなことは確かにやったなぁって、なんだか懐かしい気持ちにさせてくれましたね。最初の一編にはそういうふうに、記憶とリンクすることがたくさんありました。

町屋:望子の発想って大人の私たちが読んでいると、ハッとさせられるようなものが多いんですよね。私たちの思考や身体では考えられないことを、ずっと連続して感じ続けているというか。そんな質感やリアリティが望子から感じられて、江國さんが文章を書いているうちに彼女に生成変化したとしか思えない感覚になりました。

江國:望子の日々を書いていると、彼女の立場になって擬似体験しているような感じがしてくるんですよね。彼女の日常と自分の子どもの頃がつながる場所が、もしかしたら自分のなかにあるのかもしれません。

町屋:書きながら望子の生を生きているような感じでしょうか?

江國:そういう感じです。でも、きっとみんなそうですよね、作家って。

町屋:それはふたつ目の物語のカラスの場合も同じですか?

江國:はい、書いている間は完全にそうです。もちろんカラスの生態を調べたりはしましたけど。でも、そのあと書きながら擬似体験をするんです。

町屋:二作目の序盤で七歳のカラスが小学生の真凜のことを見つめている場面がありますよね。カラスは巣立った直後に真凜が遊び場にしている水田にやってきて、そこを居場所にしていたといいます。その頃のことを思いながら、カラスは「あれは、時間が始まる前の時間だった」と述懐しています。また、水田を見渡すカラスには「それは住宅地に忽然と出現した小さな海が、自然発火して青く燃えているように見える」とも書かれています。ここから、まるでカラスという生物の知覚でそのまま世界を捉えているような感覚を覚えました。このカラスの知覚も街を象る大事な要素なんですよね。ひっそりとしたスケール感はここら辺から醸成されているのかなと考えさせられた場面です。そういえばこういう小説が自分は好きだったんだという感覚を久しぶりに取り戻せて、すごく嬉しかったです。

江國:そうおっしゃっていただけると私も嬉しいです。小説のなかで誰かを書くことってシンパシーを感じるとかそういうことではなくて、ある程度の距離感でその人物や生き物を観察しつつ内面を言語化することなんですよね。それが今回はカラスや認知症の女性だったりしたので、難しさはありました。

■孤独を見つめ、言葉にする

町屋:江國さんの作品には恋愛感情が物語のモチーフとして描かれることが多いですよね。私は恋愛小説って結局、恋愛というものに擬態して何か別のことを書いている小説のことだと考えています。では江國さんが恋愛を通じて何を小説のなかで書いているかというと、私は孤独なのではないかと思うんです。江國さんは孤独を書くことがご自分の原動力になっているという実感はおありですか?

江國:あります。小説についてはいつも孤独という言葉で考えていますね。ただその孤独は幸・不幸とは関係のないものです。人間って、突きつめればみんな孤独でしかありえない存在じゃないですか。恋愛はそんな私たちに孤独じゃないと錯覚させてくれるもののひとつなんですよね。孤独な人間が孤独ではないと感じる、あの強烈な一瞬を恋愛は与えてくれる。それが面白いですよね。

町屋:確かに恋愛感情があるからこそ孤独は薄まったり、逆に濃くなったりする。江國さんにとって恋愛は人間の孤独を書く上で欠かせないモチーフなんだと、ずっと感じていました。江國さんご自身は孤独とどう付き合っていますか? 例えば、小説家はよく孤独な存在だと言われますけど、そう思われますか? 私はどうもそのことにピンとこなくて。

江國:小説家じゃなくても誰でも孤独なんじゃないかなと思います。小説家だけが特別に孤独なわけではないですよね。ただ、小説家は多くの人が直視しない人間の暗い部分を見つめすぎてしまうのかもしれません。みんな孤独でしょとか、恋愛は錯覚でしょみたいな、それを言ったらおしまいだってことを突きつめて考えてしまうから、もしかしたら孤独な存在だと思われてしまうのかもしれないですね。

町屋:江國さんはとりわけそのことを作品のなかで表現され続けた作家だと思います。特に『ウエハースの椅子』では孤独を言葉の問題として引き受けていらっしゃった。

江國:あの小説では絶望がしゃべりますもんね。

町屋:そうですね。先ほども言いましたが、あの時期は江國香織さんの物語性が人物を描くことから言葉そのものへの関心へ移っていった感じを受けています。私の勝手な印象ですが、言葉から出発した作家が次第に物語に重きを置くようになることは割とよくある気がします。そして、物語から出発した作家はえてしてずっと物語作家としてやっていくのだというイメージもまたありました。ですが、江國さんは例外で、人物中心の物語性に長けた人が、途中から言葉が抜き差しがたく作品の内側で強い存在感を放つようになったんじゃないかなと思えてならないんです。

『ウエハースの椅子』『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』『号泣する準備はできていた』などの作品によって感じた江國さんの変化に、私はかつてすごく大きなインパクトを感じました。もちろん私は初期の作品もすごく好きなのですが、そうした変化を経てからの江國さんは、初期作品の魅力も損なわずに新たな作品世界を作り上げるようになったと思うんです。ご自身ではその変化の自覚はありますか?

江國:ありがとうございます。そう見てくださっていたのは嬉しいです。でも、私としては昔も今も言葉が好きだということには変わりがないと思っています。小説を書いていても、書いていなくても、とにかく何かを言語化したいって気持ちをずっと持っていました。そういえば、先日、書評家の倉本さおりさんが「毎日新聞」のコラム「なつかしい一冊」で『きらきらひかる』を取り上げてくださったんです。そこで倉本さん、あの作品を全文書写したことがあるほど好きだったって書いてくださって、それだけでも嬉しかったんですけど、さらに、夜空を描写したある一節が引用されていました。それが「空いっぱいにのりたまをちりばめたみたいだ」という文章なんですが、私、まったく覚えてなくて。でも、倉本さんが紹介してくれたから久しぶりに自分で読んでみたら、いいじゃん、これって(笑)。
 あの頃は、一般的ではない比喩とか、擬音語とか擬態語を使いたかったんですね。だから、ちょっと変わった言葉がもしかすると多かったかもしれません。でも、意表をついた表現を使うのが、だんだん恥ずかしくなっていってしまった。さらに長編を書くようになって、気の利いた言い回しだけでは保たないと感じるようにもなりました。ただ、最近は人からどう思われようが別にいいよね、関係ないよねって思っています。だから、また言葉の方に戻っているかもしれませんね。今回の本でも、ひとつ目の小説の末尾が「大人の年齢は、望子には見当がつかない」で、三つ目の小説は「若い人の年齢というものは、芙美子にはもはやさっぱり見当がつかない」で終わってるでしょう。あれも少し前だったらためらってたと思います。

町屋:企みが感じられてしまうからでしょうか。

江國:そう、企んでるなって思われるのが恥ずかしいから。だけど今はもう、恥なんてなくなりました。だから何でも書いているような気がします。

町屋:でも、恥の感覚はそれはそれで大事ですよね。批評性って恥の感覚から現れるものだと私は考えています。江國さんはずっとそれを持ち続けた作家で、今はそこを経た場所で書いているのかもしれません。江國さんが初期から独自の言語感覚を発揮した書き方をされているというのは私の認識のなかにもあります。ただ、江國さんは初期の頃、物語の作家だったと先ほど私は言いましたが、それは物語の要請から言葉が出てきているという印象が強かったからなんです。それが中期になると言葉の要請から物語が生まれているような印象を受けるようになりました。ここが一般的な作家のキャリアとは違うように感じるのです。江國さんは言語感覚に長ける作家という認識は常にあったのですが、あるときから物語も言葉に要請されて生まれているという感覚に変わったという印象です。

江國:それは私も自分でよくわかります。『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』と『号泣する準備はできていた』はまずタイトルを決めたり、中身が何もないまま一行目を書いたりするところから、物語を作りました。町屋さんがおっしゃるように、言葉から物語が出てきた短編があれらのなかにはたくさんあります。

町屋:例えば『赤い長靴』には登場人物の圧倒的な孤独が描かれています。言葉が通じないという状況が言葉で書かれている。これは物語の要請からだけでは成立し得ないものです。物語性を維持しつつ言葉をより優先している、その難しいバランスが作品ごとに違う方法によって成立しているところが、私が江國さんの作品群に独自性を感じる大きな要因です。

江國:そういうふうに読んでいただけると、本当にありがたいです。

■作家にとっての生活とは何か

町屋:江國さんは詩と童話からキャリアを始められていますよね。そのことも稀有な特徴だと思います。創作の原点に小説以外のものをお持ちであることが小説家として何か影響を与えていたり、今もご自分のなかで生きていたりしますか。

江國:私は書くだけじゃなくて、もともと児童書を好きでたくさん読んでいました。児童書を扱う本屋さんでアルバイトしていたこともありましたし。だから、他の小説家よりも読んだ児童書作品の数は多いと思うので、それは今でも自分の強みだと考えています。

町屋:小説へと移ってからは長編を矢継ぎ早に書かれるようになるじゃないですか。『ホリー・ガーデン』以降は毎年のように長編を発表なさっていてそのペースに驚かされます。

江國:ペースが速い時代だったんです。でも、そうやって書いていると恥の感覚も変わっていくんですよね。例えば、『ホリー・ガーデン』は初めて三人称で書いた小説なんです。一人称は自分が語り手になりきるから擬似体験しやすいじゃないですか。でも、三人称って割と神の視点で書くことに近いから、最初の頃は、登場人物を悲しませたりしていると自分がやっているくせにと思って恥ずかしくなって、なんだか書きづらかったんです。けれどいつの間にか一人称のほうが恥ずかしくなっていて、最近は、ほとんど一人称では小説を書いていません。またしばらくしたら書いてみようかなとは思ってます。

町屋:一人称、ぜひ書いてください。しかし、振り返ってみても驚異的な執筆量ですよね。書いていない時期がないくらい書き続けていらっしゃいますけど、江國さんは書くことと読むこと、どちらにより重きを置く作家だとご自分では考えていますか?

江國:読むことの方ですね。小説を読む時間が奪われるのは苦しいです。書く方に関しては、しばらく連載が続いたあとに解放されるとすごく幸せだったりしますし(笑)。

町屋:プレッシャーから解放されるからですか?

江國:そう。時間ができるんですよね。例えば、私、連載があろうとなかろうと、午前中はずっとお風呂のなかで本を読んで、午後はお酒を飲み始める六時くらいまで集中して仕事する感じの生活なんです。ただそうすると、書く仕事があるときの食事は朝昼兼用で果物を食べるだけになります。お腹いっぱいになると集中力がなくなってしまうので。でも、書き仕事がないとその分、自由にお昼ご飯が食べられるじゃないですか。久しぶりに連載小説を休んだ期間があって、そのときは自分の好きなものを自分のために作るのが楽しくて楽しくて、お昼ご飯に何を食べようかなって考えるのが幸せでならなかった。

町屋:わかります。小説を書いてると生活がないんですよね。

江國:ほんと、そう。だから一緒に住んでいる人はちょっとかわいそうだなって思います。家にはいるし、ご飯も夜になれば作るけど、頭のなかは小説のことばかり考えているので、一緒にいてもいない感じだから(笑)。

町屋:以前、山下澄人さんと対談したときに、自分はいつも全速力の短距離走を毎回繰り返しているような書き方だ、というようなことをおっしゃっていました。毎日、書くときに過集中しなきゃいけないじゃないですか。だから、コンディションを作るために昼間は食べないとか、些事で無駄に思考を疲れさせてはダメだと思う癖がついてしまう。そうすると生活ができないんですよね。

江國:そうそう。小説を書くときには体力もそうですけど、魂も使いますからね。
町屋 特に長編や中編を書くのって、身体が持っていかれますよね。周りの作家を見ていてもそれは感じます。その意味では、ご自身では自覚がないかもしれませんが、私は江國さんって基礎体力をしっかりとお持ちだと思うんです。これだけの作品をコンスタントに書き続けているのは体力がなければできませんから。それに、さっきお話しされた登場人物になりきって生きるというのも、かなり体力が必要なことだと思います。『すばる』に連載中の「外の世界の話を聞かせて」には真美子という葬儀屋で働いている登場人物が出てきますが、彼女が働く様子がとても細やかに描かれていますよね。ああいった登場人物の働いている実感はただ調べて書けば出てくるようなものではないと思います。

『川のある街』でも、三つ目の作品では非常に骨身にこたえるような書き方がされていますよね。認識が世界とズレてしまっている人物を視点とする小説は古今東西の文学でずっと書かれてきましたが、今作の明晰さと非明晰さに横たわる悲しみはまったく新しいものだと思っています。例えば、芙美子が冷蔵庫を開けて驚くシーンがありますよね。姪っ子が作ってくれたものなのに、作ってもらった覚えがなくて、亡くなったパートナーが料理してくれたんだと思い込んでしまう。だけど、途中でやっぱり姪っ子が作ったんだとうすうす気づくのですが、芙美子は「もうすこしだけ思いださずにいられたらよかったのに」と心のなかで呟くんです。私はそこを読んで、ものすごい強靭な精神力を伴う感情だなと思って泣きそうになりました。このあたりは書いていてきつくはなかったですか?

江國:体力的にきついというより、単純に難しかったですね。だって、芙美子は自分では変だと思っていないから。完全に彼女の内側に入って語ってしまうと、町屋さんがおっしゃるような認識のズレを表現できないので苦労はしました。

町屋:そうですよね。芙美子から見える世界だけを描いたのでは可読性がなくなってしまいますし、とても難しかっただろうなというのは読んでいて思いました。

江國:芙美子のような人物を外から描くというのは珍しくはないんですよ。でも、外側に立って書いてしまうとつまらないんですよね。本当はもっと芙美子の内側に潜りこんで書ければよかったんでしょうけど、難しかった。

町屋:私は芙美子を書く、江國さんの距離感がすごく絶妙だと感じました。その距離感を成立させているのも、街を主として描いているからだと思います。この物語の世界を眺めるときに、芙美子の人物像を外から見てしまうとかえって明晰になってしまうから、認知症的な不明瞭さを感じることはできなくなってしまう。しかし内側に入り込みすぎると、欺瞞と飲み込みづらさが生じる。人間と世界との齟齬を描き切ることがこの作品においては大事にされているので、その間に街というモチーフがある。江國さんの文章によってこの小説が書かれてよかったと心から思いました。

 今日は小説家によるインタビューということで、もしかすると変に身構えさせてしまったかもしれませんが、私としてはとても得難い機会となりました。本当にありがとうございました。

江國:いえいえ、こんなにいっぱい考えてきてくださったおかげで、私も楽しかったです。それに、町屋さんが私の作品をそんなに深くずっと読んでいてくれたんだと知ることができて感動しました。どうもありがとうございました。

(二〇二四年一月三十日 東京・築地にて)

構成/長瀬海 撮影/上田泰世(写真映像部)