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【祝・芥川賞受賞】朝比奈秋さんデビュー作が文庫化! 井上荒野さんによる文庫解説公開

『サンショウウオの四十九日』で第171回芥川賞を受賞した朝比奈秋さんのデビュー作がついに文庫化されます! 現役の医師として常に身体と意識の変容を描き続け、読者に衝撃を与えている作品を次々と発表されている朝比奈さん。その原点となる第7回林芙美子文学賞受賞作「塩の道」を含む文庫『私の盲端』が2024年8月7日に発売されました。
これを記念して、文庫『私の盲端』で井上荒野さんにご寄稿いただいた解説を特別掲載いたします。

朝比奈秋『私の盲端』(朝日文庫)
朝比奈秋『私の盲端』(朝日文庫)

 林芙美子文学賞の選考委員として、2021年の最終候補作であった「塩の道」をはじめて読んだときの興奮を、まだ覚えている。選評では「生と死の手触りが生々しく迫って来て」「エピソードの作りかたがうまく、過不足もなかった」と書いた。これらのことは後で詳述するとして、そのときにはマイナス点として「情景描写が並べられるだけで主人公の心がどこにも動いていかない」ということも指摘していた。だが今、あらためて、「私の盲端」と「塩の道」を続けて読んでみると、「マイナス点」の印象は裏返しになる。どこにも動いていかないからどうだというのだ、という気持ちになっている。起承転結なく、ただ、そこに生と死がごろりと転がっていること。それこそが朝比奈秋の小説の身上であるように思えてくる。

「私の盲端」は、悪性の腫瘍のために腸を切除し、人工肛門になった若い女性、涼子が主人公である。

 冒頭の「大便を漏らし」たという一文にまずぎょっとさせられる。読むうちに、それは人工肛門に接続されたストーマパウチへの排便であることがわかる。人工肛門になると、本来の肛門からの排泄のようには便意を感じなくなる。涼子の場合、気配のようなものはあるが、いつでもタイミングを掴めるわけではなく、冒頭のように突然、脇腹のパウチの中に便の存在を感じるということが起きる。

 人工肛門の実際。涼子の身体感覚。その描写の圧倒的なリアリティには、朝比奈秋が現役の医師であることももちろん寄与しているだろう。だが、それだけではない。医師としての知識と経験だけではこんなふうには書けないだろう。私たち読者を興奮させ、動揺させるのは、知識と経験を小説に転換させるときの、朝比奈秋の感性である。

 だから、情景描写としては人工肛門とは無関係の、涼子のバイトの現場の描写にも、私たちは同じように興奮し、動揺してしまう。時系列としては涼子が人工肛門になる前、出血で倒れた日のことが、冒頭に続いて描かれる。人の「弱みに付けこむような」濃すぎるほどの味付けで、人気を博す飲食店の厨房。客として来店したバスケット選手の厚い胸板、それに触れて欲情してみせるバイト仲間の華子。心臓が悪く、胸に機器を埋め込んでいるユン。獰猛な獣のようなコックたち、彼らから強要されて残飯を掻き込む店長。コックのひとりに、当たり前のように人前で胸を掴まれ揉まれる華子。

「いまだ腹には熱いものが残ってはいるが、太い便を一本出し切って、今は腹のどこにも便意を感じない。涼子はパウチをベリベリと皮膚から剥がして、目の前まで掲げた。太い便が一本、パウチの中に『つ』の字になって収まっていた」

「鮒沢が華子のバイト着の襟元から手を突っこむと、華子は喚き声をあげる。アツシはというと、色白の顔にただ苦笑いを浮かべて、ひょろりとした足で厨房へと引っこんでいった。アツシの薄い背中を見て、鮒沢は大きく口を開けて、すり減った大柄の奥歯と太い歯茎を見せつけるように笑う」

 たとえば、このふたつの描写が、同等のインパクトを発しながら、(私個人の場合は)ほとんど同じところを刺激してくる、それが朝比奈秋の小説であり、真骨頂だと思う。

 じつは、私自身も36歳のときに大腸がんを罹患している。

 手術の後、麻酔から覚めたとき、母から真っ先に「よかったね、人工肛門にはならなかったのよ」と言われたことを覚えているけれど、当時はまず、がんという病気そのものへの恐怖と不安があった。

「私の盲端」の涼子は大学生で、当時の私よりもずっと若い。でも、この小説では、病そのものに対する彼女の恐怖や不安は潔いまでに描かれない。大腸がんは早期発見であれば、治る病気である(私が罹った時代より、今はさらにだろう)。そのこともあるのだろうが、描かないことと描くことの取捨選択に、私は、朝比奈秋の企みと、この小説へのスタンスを見る。

 描かれるのは、バイト先で倒れ、病院のベッドで目覚めたときには人工肛門になっていた涼子の戸惑い。そうして、一時的であるはずだった人工肛門が、検査の結果、永久的なものになったときの衝撃である。その戸惑いと衝撃は、人間の内臓の存在や、摂取と排泄のシステムへの再認識と重なっていく。

 再認識させられるのは、読者も同様である。人間が生きているということは、こういうことなんだ。人間の体の中は、こんなふうになっているんだ。当たり前のこと、知っていたはずのことなのに、何か、頭を殴られたような感触で、そう思う。そう――頭を殴りつけてくるような筆致。朝比奈秋の小説にはいつもそれがある。

 涼子は、戸惑いや衝撃から立ち直っていく。筋だけを書けばそうなのだが、そう書くのが生ぬるく思えるほどの迫力と、意外性とともに、その過程が物語られる。涼子が接する人々のありようも、そこに寄与する。バイト先で、売り上げを持ち逃げする鉄雄。胸の機器が作動したショックにより、大皿を天井に向かって投げつけるユン。飲食店オーナーの妻から、試作品のチャーハンを口に入れられ、同時に涼子はパウチの中に排便する。自分と同じオストメイト(人工肛門造設者)である京平と知り合い、体の交わりを通して、自分の「盲端(内臓器官で管腔が行き止まりになっている部位)」を意識する。これらのシーンに横溢する、「生」の生々しさ、激しさはどうだろう。

「塩の道」では、福岡の「お看取り病院」勤務から、寒村の医者に転身した伸夫の日々が描かれる。地吹雪に降り込められ、看護師とともに車に閉じ込められる場面からはじまるこの小説には、先に書いた通り、「生」と「死」が、くっきりした手触りと温度と湿度をあらわしながら、ゴロリゴロリと――まさに「私の盲端」でパウチの中に落ちる便のように――転がっている。

 福岡という都会の病院で、死にゆく老人に急須からラーメンのスープを飲ませていた伸夫は、寒村に来て、糖尿病で足を腐らせていく男の傷口を消毒したり、水中銃を携えたその男から襲撃されそうになったり、疲れから車の中で昏倒して死にかけたりする。

「生」は漁師たちの肉体に象徴される。「樽のような」「椅子に座っているだけでこちらに一歩迫ってきているように」感じられる肉体。だが、その漁師たちも、老いて病を得れば死んでいく。苦しい息の下でじっと伸夫を見据え、すぐ横で夕食の膳を囲む家族たちに見守られながら――。

 次第に、わからなくなってくる。この場面に描かれているのは、「生」だろうか、「死」だろうか。区別は不要、あるいは不可能なのかもしれない。ここで私は再び、「盲端」のことを考える。「生」と「死」はひと続きのものだ。生きていくということは死に向かって進むということだ。私たちは誰もが、その先はない「盲端」の中を生きていく。

 選評に書いた通りに、朝比奈秋はエピソードの作りかたがうまい。そして「私の盲端」でも「塩の道」でも、それらのエピソードに、正しさや正しくなさは付加しない。ただ、「そうある」ということが描かれている。私たちの内臓が、「そうある」ように。あるいは、人間の生と死が、「そうある」しかないように。

 それでいいのだと、今一度思う。朝比奈秋が、平易な、しかし厳選された最小限の言葉で、最大限の迫力を発揮しながら(それも彼の特質のひとつだ)書きあらわすものの手触りを、私たち読者は、ただ味わえば良い。この味わいは、稀有である。


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