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【特別試し読み】鴻巣友季子さん集中連載「小説、この小さきもの~孤独、共感、個人~」第1部から「はじめに」と第2章冒頭公開!/なぜ人は小説に共感を求めようとするのか? 小説が書かれる・読まれる歴史の背景を遡りながら、その起源と本質に迫る本格評論

 私たち人間は孤独という「病」に苛まれている。それゆえに、詩(韻文文芸)から小説(散文文芸)へと向かったのだ。「過去の、遠い、偉人」を謳う叙事物語から、「いま、ここ、私」の抒情物語へ。
 そうした志向の萌芽は西洋において古代ギリシアにあり、ヘレニズム時代のグローバリズムによって「孤独な個人」という存在の先駆けをなす。さらに産業革命を経た近代化と、同時期に発達を遂げた「小説」という文字芸術のなかで「ロンリネス」のエートスはいっそう醸成され、そしていま、インターネットとSNS時代にいたって「共感性読書」の波が席巻する。
 私たちは孤独ゆえに小説を生みだし、小説を読み書きするゆえに孤独を深めてきたのかもしれない。
 物語はいつどのように韻文の詩から散文の小説的なものへと向かっていったのか。小説という散文形式の発展を読み解くことで、人間性の核心を考察し、私たちはなぜ物語を必要とするのかを論じる、鴻巣友季子さんによる本格評論の第一部(「小説トリッパー」2024年夏季号掲載)から、「はじめに」と表題の第2章「小説、この小さきもの」の冒頭部分を特別公開する。

小説、この小さきもの ~孤独、共感、個人~
鴻巣友季子

第一部 小説、感情、孤独

はじめに

 小説とはなにか? などという問いはあまりにプリミティヴに響くだろう。
 西洋の物語の起源には詩があった。文学とは長らくおもに韻文の詩を意味していた。しかしどうだろう、いまの世界を見わたしてみると、西洋で生まれた散文文芸である小説が文学の中心であるかのごとく扱われている国や文化圏は多く、日本もそのひとつだ。
 どうして小説はときに「涙が止まらない」「切なさ一〇〇パーセント」「共感しかない」などと読者に言わせるのか。十七世紀のヨーロッパに発祥し、十八世紀に確立したと言われる小説は、たかだか二百数十年ほどの間に――「たかだか」というのは、紀元前二千年近くに遡る物語自体の歴史と比べたらという意味だけれど――なぜこんなにひとの心を掴み、広く普及し、深く根づいてきたのか?
 誤解なきよう付言すると、小説の価値を低く見ているのではまったくない。まるで逆である。私は小説を読んで育ち、それを翻訳したり評論したりすることを長年生業にしている、いわば小説派(などというものがあるとしたら)の末端にいる人間だ。だからこそ、小説のもつ力をよくわかっているつもりだし、それを恐れてもいる。それゆえ、小説とひとの感情の相互的影響関係に興味をもつようになったのだと思う。
 小説が人間をいっそう孤独で感情的な生き物にした面があるのではないか? という漠然とした問いを、私はいつの頃からか抱いてきた。おそらくこの問いが心のなかで表面化したきっかけには、ネット書店のユーザーレビューや、二〇一〇年代頃から盛んになったSNSを通じたブックレビューや動画書評の興隆もいくらか関係しているだろう。ちなみに、「孤独で感情的な」というのは決してネガティヴな意味(ばかり)ではない。
「孤独」は小説における一大テーマであり、現代小説の大半が「孤独をめぐる」ものだといっても過言ではない。私たちは近代に生まれた小説において孤独を盛んに表明し、表現し、そうすることでますます孤独になっていったのではないか?
 小説という散文文芸の本質とはどこにあるのか? その登場は私たちの感情や感性をどのように変えていったのか? こうした相互関係を読みほどくには、小説と詩のたどってきた道のりを振り返り、詩のなかに兆す小説的なものを探っていく必要があるだろう。しばしお付き合いいただければ幸いに思う。

第二章 小説、この小さきもの

 なぜ「小」説なのか?

  日本では小説はどのように始まったか。実態はべつとして、言葉としての端緒は明治期にある。当時、英語のnovelを「小説」と初めて翻訳したのが評論家で作家の坪内逍遥(一八五九年~一九三五年)だったかどうか。この説の真偽はともかく、けだし名訳だったと思う。「大説」ではなく「小説」、大ではなく小である。「旧」に対する「新」ではなく、「大」に対する「小」が使われているのだ。
『小説神髄』巻頭の柳田泉の解説によれば、逍遥は東京大学在学中の試験で、シェイクスピアの『ハムレット』における「ガートルード王妃(ハムレットの母)の性格を批評せよ」という問題をホートン教授から出題され、うかつにも東洋文学の理想を標準にして「道義批判」を展開してしまった。その結果、いたく悪い点数をつけられ奮起した。
 その後は西洋文学を渉猟し、西洋の文学概念が日本や中国の「小説」とどう違うかを見きわめようとした。柳田は、若い逍遥の西洋文学の知識がまだ浅いものであったことを指摘しながらも、「よくこれ位の議論を組織出来たものだと、その冒険事業に感心してゐる」と書いている。
 明治十八年という「文學改良熱が時代の欧化熱の一側面として未曾有の強さに達しかけた」時分に書かれた『小説神髄』は、文学改良意識の進行過程とその成立過程の軌をほぼ同じくしていた。曲亭馬琴、柳亭種彦といった徳川時代を代表する戯作者たちが活躍していた当時の日本文学は、「空想一點張、誇張と浮詞、類型的性格、道義的説教、英雄崇拝心等があまりに主觀的、一律的なものであつた」と柳田はまとめている。
 逍遥は『小説神髄』で「客觀寫實を高唱して」そういう点を正そうとした。当時の社会や文学界には、文学、おもに小説軽視の態度があり、読書の基盤に功利的概念(なにか「利」を得るために作品を読むという姿勢)があったため、文学独立論を唱えたという。
 逍遥が封建的な馬琴の勧善懲悪主義を露骨に排除しようとしたのも、時代への反発だったと、柳田は解釈している。そうすることで、道義第一ではなく人情第一、教訓第一ではなく描写第一、英雄第一ではなく人間第一を提唱したのだった。

『源氏物語』の現代小説性

 これらの逍遥の主張には、小説とはなにかを考えるうえで見るべきものが幾つかある。「人情」「客観的」「描写」「人間」といったワードだ。これは近代社会のたまものであるnovelの特徴をよく言い表している。すなわち、国の年代記や朝廷の栄枯、戦記や英雄の活躍といった「大きな物語」を振り返って詠うものではなく、いまある個人の暮らしや感情にまつわる「小さな物語」を訓戒・教訓の目的なしに客観的に写実するもの。大事より小事。全体より個人。作者の主観より客観。主張より描写、道義より感情の描出。これらは、韻文の詩がはるか先の時代に散文の小説へと辿りつく流れの核心のひとつではないか。
 こうした文言を読んだ私は、アーサー・ウェイリーの全訳を介して一九二〇年代に『源氏物語』と出会ったときのヴァージニア・ウルフの鮮烈な反応を思いだす。モダニズム文学の旗手だったウルフは、「ヴォーグ」誌に寄稿した『源氏』書評のなかで、この物語をなんの留保もなくnovelと呼んだ。novelは近代のヨーロッパで生まれた言葉と概念なのだから、十一世紀の極東で書かれた『源氏』をそう呼ぶのはある種のアナクロニズムである。しかしうっかりそう呼んでしまうぐらい、『源氏』は近代小説の特性をもちあわせていたのだろう(ちなみに、いま放映中の大河ドラマ『光る君へ』のHPでも『源氏物語』は動画のナレーションで「長編小説」と称されている)。
 ウルフの書評からは、『源氏物語』の複雑で洗練されたプロットや心理描写、技法や話法などに目をみはっているようすがうかがえる。この長大な物語のどのあたりが近代小説たりえていたのだろうか? ウルフは、『源氏』と同時期の戦争に明け暮れていたイギリスで「高らかに鳴け、郭公よ!」と野太い声で歌っていたブルトン人の詩を書評中に引いているが、それと『源氏』ではなにが違うのか。
 ここで、『源氏物語』の最新の英訳版(デニス・ウォッシュバーン訳、二〇一五年)を「ニューヨーカー」誌で評したアメリカの批評家ルイ・メナンドの定義を借りてくることにしよう。メナンドが近代小説の特性とみなしているのは、要約すると以下のようになる。

  •  内容:(戦争や災いそのものではなく)結婚、仕返し、地位争いなどの人びとの生活を描く。

  • 対象:(神、国、英雄などを讃えるのではなく)個人の心理と社会との関わりを描く。

  • 手法:(超自然的なことは起きず)リアリズムに立脚する。

  • 批評性:社会構造への分析ならびに自己批評性がある。

  • 言語:定型の韻文ではなく、口語体の散文で書かれている。

  • 文体:一人ではなく複数の語りが交錯し、間テクスト性をもち、ヘテログロシア(多様なナラティヴやボイスを内包している)である。

 『源氏物語』は服装から、書、天候などに至るまで人びとの暮らしを細かく描きだし、恋愛や人間関係に悩む人びとの心理を活写して、宮中の日々の暮らしをリアルに写しとっている。そして描写のリアルさと同時にロマンティシズムがある。社会批評性においては、十九世紀に活動したジェイン・オースティンやヘンリー・ジェイムズが書いていてもおかしくないとメナンドは述べている。
 このような形で生活の細部を描き、人物の心のひだに分け入ることができたのは、漢文ではなく、より生活言語に近い仮名文字の散文で書かれたことも大きいのではないか。

物語と感情史の大革命 アルファベットの登場

  再度、西洋文学の起源に話をもどすと、物語は「詩」であり「声」に始まった。記録ツールとしてアルファベットがない頃は、物語は口伝えで「聴かれる」ものであり、「詩」すなわち韻文として受容され継承された。声-韻文-詩がセットになっているのは、長大な物語を記憶するには押韻とそれによって定まった韻律が補助装置として必要だったからだ。「奸智に長けたオデュッセイア」「白きかいなの女神ヘーラー」のように、物語内容には必ずしも必要のない形容辞エピセットがしきりと使われているのは韻律を整えるためでもある。
 これらのエピセットは欧米読者の頭には刷りこまれていて、現代文学でもあちこちに顔を出す。アメリカの青年桂冠詩人アマンダ・ゴーマンの詩にも、「この海のない難破船である/わたしたちが目指してきたのは、/黄土色の陸地ではなく、/ひとが互いに/地図に標しあった海岸線。/昏いぶどう酒色のわざわいを強い意志で渡りきり、/わたしたちはわたしたちに辿り着く」(「これまた船にかんすること」より、鴻巣訳)というレトリックが突然現れたりする。ἶνοψ πόντος(wine-dark sea)はホメロスが常用した海のエピセットだ。ゴーマンは苦しみを大海に喩えているわけだ。
 西洋文学の始祖のごとく言われているホメロスの叙事詩も――ホメロス一個人としてのアイデンティティや実在じたいにも疑問符はつきまとうが――文字に書かれた“読み物”ではなかったという見方が優勢だ。「ホメリダイ」(ホメロス語り)と呼ばれた吟遊詩人アオイドスなどが口承で保存し継承し、口承されることで進化し定型化し、それが後代において文字化されたとされている。
 ここから先は、スペインの文献家イレネ・バジェホによる『パピルスのなかの永遠』(見田悠子訳)も参考にしていこう。西洋の書物の歴史を古代ギリシアからたどりながら、物語と文字文化がどのように発展してきたかをつづる壮大なスケールの書物だ。
 文字が普及していない頃の詩人とは、いわば、なにもかもを詩の形で記憶している広大無辺のデータベースだった。芸術家でもあり、哲学者でもあり、科学者でもあった。
 そこに現れてくるのが、フェニキア人が基礎をつくったアルファベットだ。紀元前千年頃のこと。最初は子音しか記されず、「母音を想像するのは読者の務め」だった。ずいぶん不便に感じるが、バジェホの言葉を借りれば、「アルファベットは、インターネットよりもさらに革命的なテクノロジーだった」。
 それ以前にも文字はあったが、ミケーネの宮殿時代の複雑な文字(線文字B)は書記などの限られた専門家が粘土板に財産目録などを記すためのものだった。それが、紀元前八世紀に陶器の壺や石に残された文字は、「宴会に参加した、踊り、飲み、喜びを祝う普通の人たちの、人生の特別な瞬間」を伝えるものになっているという。本稿でこれまで見てきた小説の特性とも通底する「平凡な人びとの小事」が寿ことほがれているのだ。これは重要なポイントだ。
 ここに、「小説」なるものの萌芽が見られないだろうか。アルファベットは文字文化を民主化するだけでなく、物語の語られ方と、人びとに喚起する情感の質を決定的に変えていった。いま長い歴史を顧みてみるとわかるが、だれでも使えて物事を正確に記録できるアルファベットが、声という媒体にとって代わり、声に出す必要のない散文の誕生と発達をのちに促していったのだ。
 ただし、アルファベットはインターネットのように爆発的には広がらなかった。紀元前五世紀頃でも文字はまだあまり信用されていなかったのだという。「書く」というのはある意味、頭脳と記憶のアウトソーシング化であり、「二流」の作家のすることだという認識があった。せいぜいが、忘却に備えるための保険。かのソクラテスは著述することを拒否した。弟子のプラトンによって『パイドロス』に記録されたソクラテスの言葉を引こう。文字を発明したエジプトの神トトがタモス王を訪ねて、これらの文字を下臣に与えるよう言うと、王はこう応じた。「文字がそれを学んだ者にもたらすのは、記憶力をおろそかにするがゆえの忘却であろう、書物に頼れば、記憶が外からやってくるのだから。そのため、書物が人々に与えるのは見せかけだけの知恵であり、真の知恵ではないであろう。(中略)彼らは賢者なのではなく自分が賢者であると信じ込んでいるだけなのだから」
 こんにちなんでもネット検索して知識を蓄えようとしない人たちを「Google脳」などと揶揄やゆするのと感覚的には似ているかもしれない。
 とはいえ、アルファベットはゆっくりと浸透し、人びとの思考の仕方と文化のあり方も変容させていく。朗誦されて流れ去る言葉を聴くのではなく、静止した書物を読むという行為は、文字をじっくり「見る」こと、それについて「熟考」することを可能にした。アリストテレスの「テオリア(観照する)」という言葉はここから来ている。

新たな声の誕生 叙事から抒情へ

  古代ギリシアの叙事詩はほとんど「ダクテュロス・ヘクサメトロス」(以下、ヘクサメトロス)と呼ばれる六歩格の韻律をもつ韻文で書かれていた。長音節のあとに短音節を二つ重ねた長短々格(-∪∪)、あるいは長々格(--)を五回繰返してから最後に長々格または長短(-∪)+「休止」をつけた六脚を一行とする詩律だ。ヘクサメトロスは「英雄詩形」とも呼ばれ、この雄々しい韻律で「大事」にまつわる英雄叙事詩や教訓叙事詩を詠いあげていたのだ。
 このスタイルの叙事詩は、トロイの戦記と英雄の帰還を詠ったホメロスの『イリアス』と『オデュッセイア』がとにかく有名だが、ここではホメロスの後代の、紀元前八世紀と七世紀の変わり目ごろに活動したヘシオドスに注目しよう。ヘシオドスは口承詩人であると同時に農民でもあった。
 彼もまたヘクサメトロスで叙事詩を歌ったが、そこにはホメロスにはない圧倒的に新しい要素があった。バジェホの言葉を借りれば、「今日の用語でいえば自伝的小説オートフィクションの萌芽だ。(中略)彼はヨーロッパ最初の個人であり、アニー・エルノーやエマニュエル・カレールの遠い文学的血縁といえるかもしれない」。
 たとえば、『仕事と日』などでヘシオドスが語ったのは、トロイの戦争ではなく、山の寒村で生き延びるための苦闘と教訓だ。種まき、剪定せんてい、豚の去勢、野宿の寒い夜を温めるワインのこと、家族間の喧嘩、陽の高いうちは立ったまま放尿してはいけないこと、歌合戦で優勝して賞品に窯をもらったこと……。日常の暮らしを語り、偉人や権力者ではなく自分という個人のことを語る。遠い過去ではなく現在のことを語る。韻文の叙事詩でありながら、のちの散文文芸的な趣向が入りこんできている。
 ここで思いだしておきたいのは、はるか後世の日本で書かれた磯﨑憲一郎『電車道』や、橋本治『草薙の剣』といった小説だ。近代日本国の成立から栄枯盛衰をいわば感情を排した叙事形式で書いたものだが、フォーカスされるのは個人でありその生活である。とくに『草薙の剣』では満州事変からバブル崩壊を経て現代にいたる平凡な男六人のよしなしごとが淡々と語られるが、この文体には、作者の確固たる意志があるはずだ。語り手はだれか一人を盛り立てたり、ささやかな成功を寿いだりしない。がんばってきた日本を褒めることもしない。英雄を讃えるという叙事詩の本分から限りなく遠ざかる。それは、語りの独裁に陥ることを避け、ナショナリズムから身をかわす手段でもあるのだろう。どちらもノン・ヒーローたちの戦記であり、類まれなるエピックなのだ。ヘシオドス的でもある。
 ヘシオドスはまた、フィクションをフィクションとして意識し最古の考察を行った作者だとバジェホはみなしている。語り手がヘリコン山のふもとで放牧をしていると、神が顕現した。九人のムーサ(文芸、学術、音楽などを司るギリシア神話の女神)が現れて、彼に才能を吹きこむというくだりで、「私たちは真実に聞こえる嘘を語ることができます。そして望むときに、真実を明示することができます」という文言が出てくる。「真実に聞こえる嘘」とは、のちに言うフィクションのことだろう。fictionは語源を遡れば、古フランス語のficcion(見せかけ、策略、作り事、偽造)に、さらにはラテン語の動詞fingere(粘土をこねて形作る)に行きつく。
 韻文叙事詩のなかに散文小説の兆しを探る際に、もうひとつ重要なのが、この語り手が語り手に留まっていないことである。彼は私小説的な物語の作者であり、語り手であり、登場人物でもあるのだ。全体のナレーターがキャラクターも兼ねる進行形の一人称ナラティヴというのは、物語史のなかでは比較的新しいものだと思っていたが、紀元前七世紀頃には存在していたのだった。
 英米の古典名作で一人称小説というと、十九世紀半ばのシャーロット・ブロンテ『ジェイン・エア』あたりが古く、ハーマン・メルヴィル『白鯨』、チャールズ・ディケンズ『大いなる遺産』、ヘンリー・ジェイムズ『ねじの回転』、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』、サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』などが思いつくが、半分以上は過去の回想記や手記の形で、『仕事と日』のようにいま現在の「私」が語りのタイムラインに関わっていない。ヘシオドスの時代の作者たちは物語のキャラクターであり、「ときには話の枠組からはみ出して一人称で語ることさえ」あったという。
 もちろん、『イリアス』『オデュッセイア』にも大枠の語り手の「私」はいる。最古の英語文学と言われる英雄譚『ベーオウルフ』にも全体の語り手の「私」はいる。しかしそういう「私」は物語の枠外の超越的な領域にいる存在であり、目に見えない語り手で、自分の意見や気持ちを表明するなどというのは、「(ヘシオドス以前の詩人らには:引用者注)絶対に許されない行為」だったとバジェホは言っている。物語のナレーターであるばかりかキャラクターでもある「私」が「私」の気持ちを語りだしたのだ。これは、とても〝近代小説的〟だと感じる。
 アルファベットという、非エリートのツールが広まる数世紀の間、ギリシア人たちはまだ叙事詩を歌いつづけていたが、大きな変化が起こりつつあった。エレゲイア(ヘクサメトロスに五韻律のペンタメトロスを加えた詩律。エレジーの原型)の型をとる抒情詩、リリシズムの時代がやってきたのだ。叙事エピックではなく抒情リリック。つぎのバジェホの言葉は、私がこれまで述べてきたことを見事にまとめていて、本人との公開対談でも最も熱がこもったポイントだ。

  それは抒情詩の大時代で、詩は――『イリアス』に比べると短く――歌われるために書かれ、古い時代の伝統的な伝説のように過去へ視線を送るのをやめた。身近な日々のうねりを語り、経験した感覚をしっかりとつかんでいる。今。ここ。私。

 「今。ここ。私」である。なんと端的にその後の小説の特性を表していることだろう。
 初めて文学が「反抗的な、罰当たりな、当時の価値観とぶつかるような言葉と手を結んだ」とバジェホは表現する。アルキロコスによって、戦場からほうほうのていで逃げだすアンチヒーローが描かれ、セックスについておおらかに語られた。ステシコロスはゲリュオン退治を英雄ヘラクレスの視点ではなく、退治される怪物の側から語った。物語は権威者を讃えるばかりではなくなったのだ。

世界初のグローバリゼーション 散文と孤独

  これは文学の役割の移り変わりとも換言できる。ホメロスに代表される英雄叙事詩から、私小説の萌芽とも言えるヘシオドスの叙事詩、抵抗文学の始まりとも言えるアルキロコスのエレゲイア抒情詩。この叙事詩と抒情詩の二本の柱に、紀元前六世紀ごろ新たな文章形態がくわわる。アルファベットが誕生を促進した「散文」だ。
 文字の浸透で声の世界が後退していったころ、古代ギリシア人たちはハタと気づく。自分は生活のなかで押韻や韻律に従って話していないんだし、物語の語り手や人物もみんな武張ったヘクサメトロスでしゃべらなくてもいいのではないか?……と。日本語で言えば、つねに漢文調や七五調でしゃべる人はいないわけで、ギリシアの人びとも言文一致とまではいかないが、自分たちの生活言語により近い散文で物語をつくってもいいと考えた。それに気づいたことで、近代小説へとつながる散文の長い歴史がスタートしたのだ。
 これを「文学は韻文の規律の外に新しい道を見出した」とバジェホは表現する。
 散文を使うようになると、韻文を記憶するのではなく、板やパピルスに文字を書きつけることになる。すると、毎回少しずつ違った内容を語っていた吟遊詩人アイオドスは、書かれたテクストを暗誦あんしょうする吟誦詩人ラブソドス にとって代わられていった。こうして紀元前五世紀の黄金期のアテナイで散文文芸が盛んになりだす。
 さらに、群雄割拠していたポリスがマケドニアのアレクサンドロス大王に統一され、大王が東方へと遠征してギリシアがオリエントと融合し、エジプトにアレキサンドリア図書館が建立されてヘレニズム文化が広がり、簡易版のギリシア語コイネーとその文字を共通言語として、同一の習慣、信仰、生活様式が一般市民の間にまで根づいていった。最初のグローバリゼーションの波だ。
 いま、世界中で英語のハリウッド映画を観て、MetaのSNSを利用し、英語を話す努力をしているのにも似て、ギリシア語が身につけるべきグローバル言語になった。これらは文化的同化や画一化とともに、都市の共同体の弱体化や解体につながり、個人主義が発達することになった。移民が増え、ポリスの市民たちは外国からの労働力との競争で賃金の値崩れに直面した。民たちは自分が小さな町ではなく巨大な帝国に組みこまれていることに気づいて、寄る辺なく、不安になった。一九八〇年代以降にアメリカ、イギリスがとったグローバリズム政策と自由経済主義の流れとよく似ている。
 そうすると、前面化してくるのがあの感覚、そう、孤独だ。ヘレニズム時代のグローバリズムのなかで「孤独が先鋭化」したとバジェホは指摘している。

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