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グリコ・森永事件の脅迫状はなぜ執拗に送られ続けたのか?日本中を恐怖に陥れた犯人像

 訴状、蹶起趣意書、宣言、遺書、碑文、天皇のおことば……。昭和・平成の時代には、命を賭けて、自らの主張を世の中へ問うた人々がいました。彼らの遺した言葉を「檄文」といいます。

 保阪正康著『「檄文」の日本近現代史』(2021年10月、朝日新書)では、28の檄文を紹介し、それを書いた者の真の意図と歴史的評価、そこに生まれたズレを鮮やかに浮かび上がらせています。。本書より一部を抜粋・再編して特別に公開。日本中を恐怖に陥れたグリコ・森永事件の脅迫状から見えてきた犯人像と事件の背景について紹介します。

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保阪正康著『「檄文」の日本近現代史』(朝日新書)

[第1挑戦状]
昭和59年4月7日(土)大阪中央郵便局投函
4月8日(日)に「サンケイ新聞」「毎日新聞」に送付


けいさつの あほども え
おまえら あほか
人数 たくさん おって なにしてるねん
プロ やったら わしら つかまえてみ
ハンデー ありすぎ やから ヒント おしえたる
 江崎の みうちに ナカマは おらん
 西宮けいさつ には ナカマは おらん
 水ぼう組あいに ナカマはおらん
 つこうた 車は グレーや 
 たべもんは ダイエーで こうた
まだ おしえて ほしければ 新ぶんで たのめ
これだけ おしえて もろて つかまえれん かったら
おまえら ぜい金ドロボー や
県けいの 本部長でも さろたろか

■けいさつの あほども え─グリコ・森永事件

 グリコ・森永事件と呼称されるこの事件は、昭和59(1984)年から60年にかけて起こっている。その発端は、昭和59年3月18日夜に江崎グリコ社長江崎勝久が兵庫県西宮市の自宅から、覆面姿の男らにピストルで脅されて拉致されたことに始まった。19日朝に大阪・高槻市内の公衆電話ボックスで「江崎グリコへの脅迫状」が発見されたが、その内容は「人質はあづかった」として、「現金10億円 と 金100kg を よおい しろ」というもので、身代金目的での誘拐であることがわかった。当時の新聞では、「欧米型犯罪の幕開け」と報じたが、確かに日本にはなかった新しいタイプの犯罪だったのである。

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 江崎社長は、大阪の茨木市の水防倉庫に監禁されていたが、21日午後になって自力で脱出している。国鉄大阪貨物ターミナル駅構内で発見されたときは、「夢遊病者のようなふらつく足取り」(『グリコ・森永事件』)だったという。「見つかったら、娘が殺される。見張りがおらんから、逃げてきた。見つかったら自分も殺される。早く110番を」と脅えた様子で、発見者たちに口走ったというのである。

 江崎社長は警察の事情聴取に応じたあと、記者会見の席に臨んだが、「私には全く犯人の心当たりがない。みなさんの中で、もし心当たりがあるなら、私に不名誉なことであってもかまわない、正直に警察に話してくれ」と言っている。この事件がどういう理由から起こったのか、皆目わからないというのであった。その意味ではなんとも不思議な事件であった。

 その後も江崎社長のもとには、6000万円をだせ、といった新たな脅迫状が送られている。江崎グリコはなんらかの理由でターゲットにされたということになろう。

 この事件の不思議さは、警察の関係部門やメディアに丹念に脅迫状が送られてくるという犯人の依怙地さにある。4月8日にメディア二社に、「けいさつの あほども え」という一文が送られている。これが冒頭に掲げた一文である。これを檄文というわけにはいかないが、このグリコ事件をきっかけに次つぎと食品メーカーに脅迫状が送られてくる様を称して、「劇場犯罪」という語も生まれたほどだから、最初のこの一文は、劇場犯罪を生む社会の病いを象徴しているといえるのではないかと思うのだ。

 毎日新聞とサンケイ新聞(当時)に送られたこの一文は、捜査当局への挑戦状ともいえる。とくに、「けいさつの あほども え」という言い方そのものが警察になんらかの恨みもあると考えられるし、これをメディアが報道するという結果を考えれば、権力に対する挑戦といった発想があるのかもしれない。しかもこの第一回目にはまだ使われていないが、二回目の挑戦状(4月22日にやはり毎日新聞とサンケイ新聞に届く)も、「けいさつの あほども え」で始まる一文を送りつけていて、差しだし人は「かい人21面相」となっている。

 怪人20面相は、江戸川乱歩の探偵小説に登場する名だが、あきらかにこれをもじって21面相と名のっているとも考えられるのだ。

 かい人21面相は、5月10日にはグリコの製品に青酸ソーダをいれたと脅し、そのためにグリコでは全製品を店頭から引きあげるという処置もとっている。加えてこの間に、グリコ本社の試作室やグリコ栄養食品の車庫などがガソリンで放火されるという事態にもなった。このため警察庁では、グリコに関する一連の犯罪を称して、「広域重要114号事件」と名づけて、犯人逮捕に全力をあげることを国民に約束することになった。

 なぜグリコが狙われるのか。江崎社長は、世間がさまざまに噂をしていることに、「警察には一切の隠し事はしていません」と記者会見で述べている。さらにグリコ製品のイメージは急速に落ちていき、グリコ会長の大久保武夫は、「このような状態が続けば、来年3月期の決算で50億円の減少になる」と沈痛な表情で発表している。これが5月23日のことであった。

 こうした状態を読んだのか、かい人21面相は6月25日に朝日、毎日、読売、サンケイなど四紙に第5の挑戦状を送りつけているのだが、このなかで「全国のフアン の みなさん え」と題して、「わしら もう あきてきた 社長が あたま さげて まわっとる 男が あたま さげとんのや ゆるして やっても ええやろ ナカマの うちに 4才の こども いて まい日 グリコ ほしい ゆうて ないている わしらも さいきん たべへんけど むかしは よく くうた もんや」と書き列ねている。

 文中では、「江崎グリコ ゆるしたる スーパーも グリコ うってええ 青さんいりの チョコレート 18こ は もやしてもうた」という一節さえある。

 江崎グリコへの脅迫は、このあと確かにおさまっている。ところがグリコにかわって、丸大食品に対して現金5000万円を要求する脅迫状をなんどか送っている。これも成功していない。そしてグリコに「わしら もう あきてきた」と終結宣言したときから3カ月後に、こんどは森永製菓にターゲットがしぼられていった。9月12日に青酸ソーダ30グラムを同封した脅迫状を送りつけ、「1億円をだせ」と要求している。森永側が指定された場所に現金を用意していくと、この社員が警官であると見抜き、犯人グループは接触せずに未遂に終わっている。

 その後に、朝日、読売、毎日、サンケイに送ってきた第6回目の挑戦状には、さらに警察当局をからかう内容が盛りこまれていた。「警官広田は かっこ ええやんか おおさか婦警の よしの君 ワトソン君と 相談 してみたかね」という具合である。さらに「このまえの 森永の TEL あれ なんや  サラリーマンは TELで りょおかい なんて いわへんで」という一節さえもあった。まさに警察に対する挑戦状だったのである。

 10月に入ると「どくいり きけん」のタイプで打ったシールが貼られた森永製品が京都、大阪、兵庫、愛知のスーパーで発見されている。実際に犯人グループは、その脅しを実行に移すことができることを示したのである。その後も名古屋のスーパーや大阪の茨木市のスーパーで「どくいり」シールを貼った森永製品が発見されている。

 森永製菓もまたスーパーの店頭から引きあげることになった。

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 この段階(昭和59年10月)で、捜査本部は江崎グリコと森永製菓に現金の受け渡しを要求した犯人グループの声を公開している。これは女性と男児であったところから、捜査本部には情報が殺到している。次いで、あるスーパーの防犯カメラがとらえた不審な男性の写真を公開した。いわゆる「キツネ目の男」といわれる写真で、これにもまた多くの情報が寄せられたというのだ。

 その後も、かい人21面相からの脅迫状が食品会社に届いている。当時の新聞報道によれば、東京のスーパー、森永乳業、ハウス食品工業(現ハウス食品)、不二家製菓などに脅迫状が届いたというのだ。114号事件、キツネ目の男、それに困惑する警察幹部、それをからかうように犯人グループの挑戦状はなおも送りつけられた。12月には、「兵ご県の あるところで ある会社から 1億 とったで」という挑戦状が大阪府警本部に届き、「正月くらい ゆっくり せいよ」とからかったというのである。

 こうした挑戦状は大体がメディアに送りつけられるので、メディアの側は競って報道もしている。その一方で企業への脅迫状は、密かにというのだから、現代社会の弱点を巧みについた犯罪だともいえた。この間、捜査当局は、犯人グループを追いつめるところまで捜査を進めたといわれているが、結局は犯人グループのひとりをも逮捕できなかった。

 昭和60年2月ごろには、マスコミにあてた挑戦状のなかで、「国会ぎいんの みなさん え」と題する嘲笑的な一文をも送りつづけた。

 そしてグリコ事件から1年5カ月後の昭和60年8月12日に、マスコミにあてて25通目の挑戦状を送っている。これも「国会ぎいんの みなさん え」と題していたが、「わしら みたいな 悪 ほっとったら あかんで まねする あほ まだ ぎょおさん おる」「くいもんの 会社 いびるの もお やめや このあと きょおはく するもん にせもんや」とあり、その最後は「悪党人生 おもろいで かい人21面相」となっていた。実際に、これ以後は犯人グループからの挑戦状は途絶えてしまったというのである。いわば114号事件は犯人グループが一方的に幕をおろしたということになるだろう。

 思えば奇妙な事件だった。犯人グループは表面上は利益を得ていないのである。裏側では犯人グループとの取り引きに応じた企業もあるといわれているが、正確にはわかっていない。ではこの犯罪を単に「劇場犯罪」と名づけていいのだろうか。何が目的の犯罪だったのか。

 この事件は、知能犯と暴力犯が混じりあわせになっているように見えながら、実際には知能犯としての要素が強い。昭和という時代をふり返ってみても、これほど手のこんだ、そしてマスコミを巧みに使い、警察内部にも通じていて、この時代の人びとの感情を利用する犯罪はなかった。

 したがって、グリコ・森永事件の犯人グループについても、高度な教育を受けた反体制の思想をもつ人物、警察の捜査に通じていてそれを破る自信のある人物、さらには大手企業の弱点を熟知していてどのような脅しが効果あるかを知っている人物、などの像が浮かんでくる。しかも日本の警察は広域になればなるほど捜査が手間どるという事実を巧みに利用しての犯罪でもあった。犯人たちはこうした犯罪を利用して、捜査当局に悪罵を浴びせ、その権威を失墜させようと狙っていたこともまたまちがいないだろう。

 犯罪が高度化するとともに、よりこの情報社会のウィークポイントを狙ってくり返される、そういう時代の予兆だったといえるだろう。ただ犯人グループは、大衆がこうした犯罪を甘い目で見て、欲求不満そのものを解消するとにらんでいたようにも思えるが、現実にはそのようなことはなかった。姿の見えない犯人の不気味さというイメージが強かったからである。

 グリコ・森永事件のプロセスで、この犯罪に似せた事件は98件起こったという。そのうちの67件では犯人が逮捕されている。

 グリコ・森永事件は、平成12年にすべて時効になった。犯人グループはひとりも逮捕されることはなかった。捜査当局が「完敗」した事件として記録にのこされることになった。犯人グループもまた、バブルのあの昭和狂騒曲のなかで必死に国民にむかって時代への不満を演じたのではなかったか。そして、犯罪のバブル化。のこされた挑戦状をひとつひとつ丹念に読んでいくと、なおのことそう感じられてくるのである。


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