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方子とマサ 対照的な運命に翻弄された二人の女性を通して描く日韓の歴史/深沢潮さん渾身の大河小説『李の花が散っても』川本三郎さんによる書評を公開

 深沢潮さんの『李の花は散っても』が評判を呼んでいます。大正から昭和という時代にかけて、皇族から李王家に政略で嫁いだ「王朝最後の皇太子妃」李方子と、朝鮮半島から来た独立運動家と恋に落ちた「根無し草」の女・マサの人生を描いた著者渾身の大作です。
 川本三郎さんが「小説トリッパー」2023年夏季号でご執筆くださった書評を掲載します。

深沢潮著『李の花が散っても』(朝日新聞出版)
深沢潮著『李の花が散っても』(朝日新聞出版)

国家に翻弄されながら、個の尊厳を守り通す

 素晴しい力作である。

 大正から昭和戦前、そして昭和戦後の日本と韓国の歴史を二人の対照的な女性の生に寄り添いながら描いてゆく。これまで在日の人々の苦難、悲しみを描いてきた深沢潮ならではの渾身の作。

 歴史とは、そこに生きる個々人の悲しみの総和であることが読者に確実に伝わってくる。

 この小説の成功はなにより語り手(主人公)を二人にしたことだろう。しかもその二人がまったく対照的な出自を持っていることで物語に広がりが生まれている。作者は二つの視点から日韓の現代史をとらえることによって、歴史小説の豊かなうねりを生み出している。

 ひとりは皇族である梨本宮家の娘、方子。もうひとりは孤児同然に生きてきた最底辺にいる庶民のマサ。この二人が交互に描かれてゆく。

 日本は日露戦争後の明治四十三(一九一〇)年、韓国を併合し、自国の領土とした(併合後の呼称は「朝鮮」に)。

 朝鮮はそれまで李王朝が約五百年続いた独立国家だった。そのため日本の支配に対する抵抗が強かった。それを緩和するため日本政府は、日鮮融和に腐心した。

 そのひとつの策が、日本の皇族の女性を李王朝の皇子に嫁がせることだった。一種の政略結婚といっていい。

 その結婚相手に選ばれたのが方子だった。大正五年、学習院女子部に通う方子が李王の皇太子、垠の配偶者に選ばれるところから物語は始まる。お国が決めたことで十五歳になろうとする少女は逆うことなど出来ない。「お国のために耐える」と運命に従うしかない。

 大正九年、十八歳になった方子は、二十二歳の垠と結婚するが、日本人からも朝鮮人からも祝福されない。日本人は皇族が朝鮮人に嫁ぐことを快く思わない。朝鮮人は王家に日本人の血が入るのに反対する。日鮮融和の筈の結婚がかえって日鮮分断を生んでゆく。

 もう一人のマサは、貧しい家に生まれ、苦労して東京に出て来てから、朝鮮からの留学生に助けられる。独立運動をしているこの金南漢を慕うようになる。日本に居場所のないマサは南漢について朝鮮に渡る。方子が実在の女性なのに対し、マサは、作者がおそらくは何人かのモデルから作り出した女性だろう。

 関東大震災の時の朝鮮人虐殺、二・二六事件、日中戦争……大きな出来事が次々に起こる。方子もマサもその歴史の大波に洗われてゆく。

 二人の女性は、共に自分の力で歴史の波を変えることは出来ない。ただ、流れのなかで懸命に生きてゆくしかない。

 方子の周辺にはつねに死がある。垠の腹違いの兄である完和君は十三歳で急死する。毒殺の疑いがある。もうひとりの腹違いの兄李王の母、閔妃は日本の公使に殺されている。方子のはじめての子、晋は幼なくして謎の死を遂げる。「朝鮮の王家の一族は、どうしてこうも不幸な運命に見舞われなくてはならないのか」と方子は胸が苦しくなる。

 深沢潮は、多くの資料を駆使して、朝鮮の王族の悲劇を刻明に描いてゆく。単なる事件の羅列に終らず、物語は血の通った人間の痛み、嘆きに裏打ちされている。歴史はまさに個の悲しみそのもの。

 とくに印象的な人物は、垠の妹、徳恵だろう。十二歳で日本に連れてこられ、学習院に入学した。彼女はいつも魔法瓶を持ち歩き、外ではお茶を出されても決して飲まない。毒殺を恐れているから。

 この徳恵が次第に精神を病んでゆき、ついに精神病院に入れられる姿は痛ましい。戦後、なんとか祖国に帰ることが出来るが、精神病院から羽田空港に車で運ばれた徳恵の表情はうつろだった。そして手には魔法瓶を抱えていた。

 この場面を書いている時の深沢潮の心の震えはどんなだったろう。

 朝鮮に渡ったマサのほうも歴史の大波に洗われ続ける。戦争が終わり、なんとか朝鮮が独立したものの、すぐさま南北が対立し、朝鮮戦争が勃発する。マサは多くの人間の死を見ながら必死に混乱の時代を生き残る。日本ではなく韓国が自分の故郷のように思えてくる。それでも「あたしだけが生き残っていいのだろうか。申し訳ないよ」と、生き残ったことの罪責感にとらわれる。

 同じ思いは方子にもある。徳恵が精神病院に入ったことを思う時、方子は、義理の妹を助けられないことに「罪悪感で、ますますいたたまれなくなる」。

 歴史の大波に何度もさらわれそうになりながら、なんとか生き延びてきた。しかし、そこに晴れやかな喜びはない。何人もの親しい人間たちの死を見てきた者は、自分だけが生き残ったことに罪責感を感じる。そこに二人の、苦難を乗り越えて生きた者の誠実さがある。

 それまで別々に生きてきた方子とマサが、はじめて戦後の韓国で出会うくだりは静かな感動がある。

 そこには、皇族と庶民の違いを超えて国家に翻弄されながら、個の尊厳を守り通した者どうしの友愛がある。

 末尾に付された参考文献の多さには、著者の丹念な仕事ぶりがうかがえて敬服する。今後、韓国について語る時、この小説を忘れることはないだろう。


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