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有能すぎて嫌われた「鬼平」が死の床で受けた“褒美”とは 知られざる長谷川平蔵の素顔

『人事の日本史』(朝日新書)は、人事の本質を歴史上の有名人や事件に求め、多数のキーワードから歴史を読み解いたユニークな日本通史。名作テレビ時代劇「鬼平犯科帳」で有名な長谷川平蔵についてのエピソードを紹介する。(写真:Gettyimages)

 テレビ時代劇で中村吉右衛門氏が演じていた鬼平こと長谷川平蔵宣以は、実在の人物である。池波正太郎氏の小説で有名になったのだが、それに先だって、法制史学者・瀧川政次郎氏の研究があり、石川島人足寄場の設立などの事跡が明らかにされている。

 平蔵が就いていたのは火付盗賊改という役で、弓8組、鉄砲20組あった先手組の頭(長官)の中から一人が任命され、冬季のみ一人増員となる。先手頭との兼任であることから「加役」と呼ばれ、通年任じられている者を「加役本役」、冬季のみの者を「当分加役」という。

 この役は、江戸の放火犯や盗賊を捕縛する権限を持っており、町奉行所を補完するものだった。先手頭は与力6~10騎、同心30~50人を指揮する役だから、10名ほどで警察業務にあたる町奉行所の同心よりははるかに機動的な警察組織である。

 平蔵が火付盗賊改を拝命したのは、天明7(1787)年9月19日のことで、翌8年4月28日にいったん任を解かれているから、最初は当分加役であった。10月2日、再び加役に復帰し、以後は加役本役としてずっとこの職にあった。

 平蔵の先祖は、今川氏の家臣で、家康の時代から徳川家に仕えている。本家は1450石、平蔵の家は400石の家禄である。父宣雄は、書院番士から小十人頭、先手弓頭をへて京都町奉行にまで栄達している。

 平蔵自身も、書院番士となり、進物役などを務め、西の丸の徒頭に進み、先手弓頭になっている。ここまでは父とほぼ同様である。先手弓頭でなく目付であれば完全な出世コースなのだが、加役を首尾よく務めれば遠国奉行への栄転の可能性もあった。

『人事の日本史』(朝日新書)
『人事の日本史』(朝日新書)

■有能すぎて嫌われる

 町方での平蔵の評判は、非常によかった。加役の仕事については、定信も「平蔵ならば」と言うようになったという。江戸の庶民も、「平蔵様、平蔵様」と平蔵が加役でいることを嬉しがっていた。

 こうした評判を知ってか、平蔵は誰よりも町奉行にふさわしいと自負するようになった。寛政元(1789)年6月頃、平蔵が次のように「高慢」していることが定信の側近水野為長の『よしの冊子』に書き留められている。

「おれは書物も読めず、何にもしらぬ男だが、町奉行の事と加役の事は、生まれ付き身についているほうだ。今の町奉行は何の役にも立たぬ。町奉行はああしたものではない。いか様な悪党があっても、町奉行や他の加役を勤めた者は、その悪党一人しか捕まえないが、おれは根から葉から吟味して捕まえる。それだとてぶったり押したりしてせめはせぬ。自然と出す仕方がある。町奉行のように石を抱かせ、色々の拷問にかけて白状させることはせぬ」

 平蔵は、確かに町奉行への栄転をねらっていた。あるいは父同様、遠国奉行などに昇進し、その後にと思っていたかもしれない。しかし、寛政元年9月、評判のよくない町奉行山村良旺が御三卿清水家の家老に異動した後は、京都町奉行池田長恵が昇進し、平蔵には何の沙汰もなかった。

 寛政3年12月、もう一人の町奉行初鹿野信興が死んで町奉行が空席となった時には、平蔵が下馬評にあがった。平蔵も、今度こそと思ったかもしれない。

 しかし、今度も昇進は見送られ、町奉行には大坂町奉行の小田切直年が昇進してきた。

 平蔵が町奉行になれなかったことについて、

「江戸町奉行は御目付を勤めぬものハならぬ。長谷川ハ決してならぬ」

 と幕閣で評議されたらしい。これについては、「不自由なことを言うものだ。その任にかなう人物なら、何からでも仰せ付けてよさそうなものじゃ」という正当な批判もあった。それに小田切も、知行3000石の大身旗本とはいえ目付は務めていない。

 実は、平蔵はスタンドプレーが多いことなどから幕閣のウケが悪く、目付を務めてないことを口実に町奉行への道を閉ざされたという側面もあると思われる。『よしの冊子』にも、

「総体御役人ハ平蔵をバにくミ候よし(総じて役人は平蔵を憎んでいる)」

 と報告されている。あまりに有能すぎると周囲の反感を買ってしまうのは、理不尽な話ではあるが今も昔も同じである。

 しかし、400石ほどの平蔵が、長く加役を務めるのは経済的にもたいへんだった。せめて小田切の後の大坂町奉行にでも行かなければ「腰が抜ける」だろうともっぱらの評判だった。

■死の床に届いた「ご褒美」

 寛政4年2月頃、平蔵は、いくら職務に出精しても昇進しないことに大いに歎息し、次のように同役などにぼやいたという(『よしの冊子』)。

「まうおれも力がぬけ果てた。しかし越中殿(定信)の御詞が涙のこぼれるほど忝ないから、夫計を力に勤める外には何の目当もない。是ではまう酒計を呑み死ぬであらふ」
(もうおれも力がぬけ果てた。しかし越中殿の御ことばが涙のこぼれるほどありがたいから、それだけを力に勤務に励む以外には何の目的もない。これではもう、酒ばかりを呑んで死ぬことになるだろう)

 自信も能力もあり、さらに精魂こめて役務に勤めても、上司が認めてくれないのはつらいものである。

 ただし、平蔵の耳には、定信が「平蔵ならば」といった言葉が届いていた。軽い気持ちでいった言葉かもしれないが、定信の評価は、平蔵の心の支えになっていたのである。

 上司に頼りにされ、無理をして頑張る部下の奮闘には報いなければならない。その一番の褒賞は昇進だったはずである。

 しかし、平蔵を妬む役人たちは、平蔵のことをあれこれと悪く言っていた。むしろ江戸の庶民のほうが平蔵を素直に評価し、

「あれ程の御人に御褒美御加増も下されぬのはあまりな事だ。公儀(幕府)も能ない。何ぞ御ほうびが有りそふなものだ」

 と噂していた。

 平蔵にようやく褒美が与えられたのは、定信が老中首座の地位を追われた翌年の寛政6年10月29日である。幕府は、平蔵の長年の加役務めの功労を認め、時服(季節ごとに将軍から下賜される服)を賜うた。

 定信は、加役としての平蔵は評価していたが、人物としての平蔵は評価していなかった。銭相場に手を出すなどして「山師」との評判があったからである。

 その定信が引退して、平蔵の運もようやく開けてきたように思えた。ところが、翌寛政7年4月、平蔵は突然病に倒れた。これまで無理を重ねすぎていたのかもしれない。平蔵の病は日に日に重くなり、平蔵危篤の報が将軍家斉の耳にも届いた。

 家斉は、平蔵の危篤を聞き、病状を心配する懇ろな言葉をかけ、家斉自身の常備薬である瓊玉膏を平蔵に分け与えた。将軍のこの破格の扱いに、病床にあった平蔵は、ありがたさのあまりに涙したことであろう。その4日後の5月19日、平蔵は世を去った。享年51であった。


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