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“自称”専門家の見分け方 「わかる」のが専門家ではなく、むしろ「わからない」のが専門家 <内田樹×岩田健太郎>

 専門家と非専門家の違いとは何なのか? 共著作『リスクを生きる』(朝日新書/2022年3月)哲学者・内田樹さんと医師・岩田健太郎さんは「専門領域のフレームが見えている人」がプロフェッショナルだと説く。リスク社会を生き抜くためには「自分は何を知らないのか」を知るべきだという2人の対談の一部を本書から抜粋してご紹介する。(写真:水野真澄)

内田樹・岩田健太郎著『リスクを生きる』(朝日新書)

■専門家と非専門家の違いとは

内田:感染症の専門家としての岩田先生のスタンスはよく理解できます。一方で僕は「素人の立場」です。素人だからこそ言えることってあると思うんです。専門家は責任があるから言い切れないけれども、素人は「僕は素人です。だから僕の話は真実含有率が低いです」とお断りをしておけば、割と好きなことが言える。それが素人の特権だと思うんです。信頼性はないにしても、そういう発言が「そういう見方もあるのか」という気づきをもたらすこともたまにはないわけじゃない。
だから、僕はよく「予言」をするんです。専門家は学術的厳密性を重んじますから、軽々には未来予測をしませんけれど、僕は素人だから遠慮なく予言をする。それこそ素人が引き受けるべき役割じゃないかと思うんです。どんな予言をしても、遠くない未来に現実によって予言の正否の判断が下されるわけですから、間違った予言をしても「被害」は長くは続きません。

岩田:そうですね、当たるか、外れるか。現実が予言を裁断してくれます。

内田:予測をしておくと、「ほんとに内田の言う通りのことが起きるかどうか」という関心を掻き立てることができる。「外れたら、笑ってやろう」と思ってくれていいんです。それでも僕が立てた仮説に注意を向けて、その正否を吟味しようという気持ちを持って現実を観察してくれれば、それで僕としては十分なんです。僕の予言が当たったか外れたか知るためには、けっこう手広くかつこまめにニュースを追っていないといけないですからね。
 僕はどんな分野でも素人であるということを公言していますから、僕が予言したことが外れても、「お前の予言を信じて、えらい目に遭った」という人はいないはずなんです。東京オリンピックについても「途中で中止になる」という予言をしましたが、外れました。でも、僕の予言が外れたせいで実害をこうむった人はたぶん日本に一人もいないと思います。それよりは、「なぜ中止になる可能性のあったイベントが強行されたのか?」という問いが前景化されたとしたら、僕はそれでいいんです。

岩田健太郎さん ©水野真澄

岩田:実際には、コロナについてすべてを専門的に理解できる人は存在しないので、「非専門家」の見解も大事だと思います。僕はコロナがもたらす医学的な影響についてはかなり正しく申し上げることができますが、コロナ禍による経済的な問題や文化的な影響には専門家としてはコメントできませんし、していません。するとすれば、「非専門家」としてのコメントとなるでしょう。
 専門家とは、専門領域のフレームが見えている人。要するに、「ここまではわかっている、この先はまだわからない」という境界線がちゃんと見えている人がプロなんです。「わかる」のが専門家ではない。むしろ「わからない」のが専門家。ややこしい言い方になりますが、わからない領域があるのをわかっているのが専門家であり、それを意識させ、気づかせてくれるのが非専門家なんです。
 例えば、「ワクチンが有効であるかどうか」「ワクチンは安全かどうか」については僕の専門領域で議論できます。そうではなく、「高齢の親が『絶対にワクチンを打ちたくない』と言っています。どうすればいいでしょうか」のような課題には、おいそれとは答えられない。価値観や倫理観が入り込む領域は、感染症学の守備領域ではないからです。ヴィトゲンシュタイン的に言えば、「語りうることと語りえないことの線引きをする」のが大事だといつも考えています。もし、「絶対に打ちたくない」と主張する人に、「あなたは間違っている。ワクチンは打たねばならない」と論破しようとする「専門家」がいたとしたら、それは自分の守備範囲の境界線をうまく理解できていない、「自称」専門家、感染症の知識をたくさん集めている「物知り」に過ぎないのだと思っています。そういう人は、多いですけどね。

内田:今の岩田先生がおっしゃったことはきわめて本質的なことだと思います。知性の本来の働きは「自分は何を知らないのか」を精密かつ網羅的に記述できることだからです。
 僕の書斎はご覧の通り、天井まで本棚です。来た人がよく訊くのは「いったい何冊ぐらいあるんですか?」と「これ、全部、読んだんですか?」です(笑)。全部なんか読んでるわけないじゃないですか。本棚に並んでいる本のせいぜい二割くらいしか読んでない。あとの八割は「いつか読みたい本」「いつか読まなければならない本」です。にもかかわらず、いまだ読むに至ってない。今の自分の年齢を勘定に入れると、たぶん書斎にある書物のほとんどを僕は読まずに死ぬことになる。数千冊の「死ぬまで読まない本」に囲まれて暮らしているわけです。それなのに、今も本を買い込んでいる。読まない本だけが増え続けてゆく。何のために「読まない本」はここに並んでいて、僕は毎日それを見上げて暮らしているのかというと、自分の無知を可視化するためです。

岩田:ああ、なるほど。とてもよく理解できました。

■人口減に機能しない資本主義の弊害

内田:非専門家の予言をすれば、日本が避けて通れない今後の課題は「人口減」です。確実に、マンパワーが減っていく。昭和から続いた人口増が頂点を迎え、これから減少へと転じます。にもかかわらず、国も企業も「マンパワーありき」の考え方から脱け出せていません。コロナ対策の保健所の疲労困憊にしても、「そもそも人員が足りない」のに気づけない。人海戦術はもう、通用しないのです。

岩田:特に、政府の感染対策はマンパワーの使い方がヘタ過ぎます。例えば、濃厚接触者への対応。現在、コロナウイルスの濃厚接触者は自宅待機が基本です。宿泊施設に集めるといっても強制力がないので、自宅での自主隔離になる。そこへ2日に1回の頻度で保健所の担当者が訪問してPCR検査をするんです。その往復時間だけでも相当な負担なので、今後感染が広がったら対応しきれなくなると思います。
 僕に言わせれば、こうした訪問PCR検査は意味がない。感染を防ぐ手立てではないからです。検査と検査の合間に発症する場合もあれば、検査が陰性でも感染している人もいます。ハッキリ言って、コロナ対策を「ヤッテル感」のために人員を割いている気がします。ただでさえ仕事が増えている保健所のスタッフに、ますます責務を課す愚策です。

内田樹さん ©水野真澄

内田:政策決定者たちが、人間はいくらでもいる。いくらでも替えが利くと信じ込んでいるんでしょう。でも、それは人口が増加し続けている社会でしか通じない話なんです。そして、資本主義というのは「人間は増え続けるので、いくらでも替えが利く」という人口動態を前提にしてはじめて成立する制度です。だから、当然ながら「人口減局面での資本主義」というのを人類は経験したことがない。それがどんなものだか想像がつかない。だから、「人口減」というファクターを勘定に入れて制度設計することができない。

岩田:医療や教育など公共的なセクターにも、資本主義が入り込んでいるんですね。

内田:そうです。でも、公共的なセクターに資本主義が入り込んできたのは、もうそこしか収奪できる領域がなくなってきたからなんです。人口減ではマンパワーが減るだけではなく、マーケットが縮減しますから、これまでのような商品サービスの売り買いだけでは、資本主義が回らない。だから、教育や医療や行政のような「それなしでは人間が集団的に生きてゆけないセクター」に手を突っ込んできて、そこで金儲けをしようとしているんです。