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【全文公開】佐々木敦さんによる本格文芸評論、『成熟の喪失』から「はじめに」を全文公開!

 ひとは何かを失わなければ成熟した大人になれないのか? 「成熟」による父性の獲得が虚構であることを解き明かし、「継承」という未来への問いを導く新世紀の本格文芸評論。戦後日本の自画像として江藤淳が設定した「成熟」と「喪失」――いまなお多くの書き手を惹きつけてやまない問題系について、『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を契機に『シン・ゴジラ』から『シン・仮面ライダー』へといたる庵野秀明の主要作品を読み解きながら、「これからの日本(人)にとって成熟とは何か」を提起する批評的実践。本日2024年7月12日(金)発売の、佐々木敦著『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊』(朝日新書)より「はじめに」の全文を特別公開!

佐々木敦『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊』(朝日新書)
佐々木敦『成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊』(朝日新書)

成熟の喪失 庵野秀明と〝父〟の崩壊
佐々木敦

はじめに

 本書は、庵野秀明あんのひであきという映像作家についての長編評論です。
 一九九五年に放映が開始され、社会現象とも言うべき大ヒットとなったTVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の監督として世にその存在を知らしめた庵野は、その後も四半世紀以上にわたってリメイク/リブートを続けた「エヴァ」シリーズを軸として、実写映画を含む数々の話題作によって、作家としての人気と評価を高めてきました。庵野に対する世評は二〇二一年に公開されたシリーズ完結編『シン・エヴァンゲリオン劇場版』で頂点を極めたと言えると思います。もちろん、それ以前にも『シン・ゴジラ』(二〇一六年)があり、更にその前に『ラブ&ポップ』(一九九八年)があり、『シン・エヴァ』以後にも『シン・仮面ライダー』(二〇二三年)がありました。本文でもくどくどと書いていますが、筆者はアニメーションというジャンルには疎く、庵野秀明という存在にかんする興味も限定的です。代表作と呼べる作品についてはそれぞれじっくりと論じていますが、庵野の全作品、フィルモグラフィ全般を扱うものではないということは、あらかじめ述べておきたいと思います。
 庵野秀明にかんしては、すでにおびただしい数の評論や研究書、雑誌やテレビなどの特集が存在しています。アニメを専門とする書き手から、いわゆる「おたく(オタク)文化」にかかわる論者、庵野の人間性(?)に迫るルポルタージュまで、さまざまなアプローチによって、庵野は取り上げられ、論じられ、評されてきました。それは書物や記事や番組のかたちを取るものだけでなく、インターネットのSNS上の考察や言及、あるいは日々の雑談においても、庵野とその作品は膨大な言葉を費やされています。まちがいなく庵野は、現在最も「語る欲望」を喚起する特権的な表現者のひとりです。彼の作品には、ひとに何かを言いたくさせるような力があるのです。それは作品の魅力や、作家としての才能だけではない、一種の引力のようなものだと思います。アニメの専門家でもなければ、庵野秀明の大ファンというわけでもない筆者が、こうして一冊の本を書いてしまったことが、そのことを証明しています。
 では、本書は、どのような「庵野秀明論」なのでしょうか?
 ここで、もうひとつの固有名詞が登場します。本書は基本的に庵野論ですが、と同時に、江藤淳えとうじゅんという人物にかんしても、少なからぬ頁数を割いています。江藤は一九九九年に自死によって六十六歳で没した文芸評論家です。文学作品にとどまらず、歴史や政治といった分野でも多くの重要な仕事を残した、戦後を代表する批評家のひとりです。晩年の江藤は、文壇のみならず、保守論壇でも少なからぬ影響力を持っていましたが、死して四半世紀が経った現在もなお、彼の著作は続々と復刊、再刊されており、代表作は版を重ね、読まれ続けているだけでなく、江藤淳その人を論じた書物も数々出版されています。
 本書はしかし、江藤淳という存在をトータルに論じているわけではありません。江藤の数ある著作の中でも特によく知られた、おそらく最も多く読まれているであろう『成熟と喪失─〝母〞の崩壊─』(一九六七年)についての論及がほとんどで、関連する他の文章にも多少触れていますが、本書における江藤淳の扱いは、ほぼ『成熟と喪失』論と言ってよいと思います。庵野秀明に比べると、江藤淳は、副次的な登場人物に過ぎません。
 ならば、庵野秀明を論じた本に、なぜ直接的な接点がまったくないように見える江藤淳というひとが出てくるのでしょうか? 当然の疑問です。詳しくは本文を読んでもらいたいのですが、一言で述べると、本書は庵野秀明総監督の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を観た時に筆者が抱いた疑問を出発点に、庵野の作品世界を通底し、時間とともに変化してきたと考えられる重要なテーマである「成熟」を、江藤淳の『成熟と喪失』を重要な参照項にしながら、出来る限り現在形の視点から描き出そうとするものです。『成熟と喪失』は、複数の――文学史的に言うと「第三の新人」と呼ばれた――小説家の作品を読解しつつ(江藤淳にとっての)「成熟」をあぶり出した本ですが、いわば本書は、庵野秀明の作品の読解を通して、江藤淳の『成熟と喪失』を書き換える野心を持っていると言えます。
 つまり本書は、ひとつの「成熟」論であり、「成熟」とは何か、を論じた本です。
 成熟とは、何でしょうか? たとえば広辞苑には、こうあります(もちろん複数の意味があるのですが、本書にかかわる字義のみを引きます)。人の心や体が十分に成長すること。また、上達すること。
 他の辞書などでも、ほぼ同様の説明が記されています。心身が「十分」に「成長」すること。当然ながら次なる疑問は、では「成長」とは何か? そして、何をもって「十分」だと言い得るのか、ということになります。ここでさしあたり問題になるのは「心」の方です。そもそも「心」が何であるのかも厄介ですが、それが「十分」に「成長」するとは、果たしてどういうことなのか? よく考えてみようとすると、にわかによくわからなくなってきます。
 そこで別の言葉を出してみましょう。心身が「十分」に「成長」すること、とは要するに「大人になること」ではないか。がしかし、当然ながら今度は「大人」とは何か、という疑問が生じてきます。「成人」は年齢で決められていますが、「大人」の方は曖昧あいまいです。けれども「大人」と「成人」は同じような意味で使用されることもしばしばあります。法律で定められた日本の成人年齢は、二〇二二年四月一日に二十歳から十八歳に引き下げられました。今から二年ほど前に突然、十八歳のひとは「まだ子ども」から「もう大人」にされてしまったわけです。
 もちろん、それは制度的なことでしかありませんが(周知のように成人年齢は国によって違います)、ここには「年相応」という考え方が働いています。「大人げない」とか「大人の振る舞い」とか「カラダばかり大人になって」などといったよくある言葉遣いには、ある年齢(成人年齢の場合もあれば学校を卒業して仕事に就いた年のこともあります)以上の者を「大人」であるとして、「大人」としての言動や態度を、社会通念や「常識」などによって暗に規定して、そこに則しているか否かを問題にするという、いわば選別装置としての「年相応」が機能しています。
 ざっくり言ってしまえば、「成熟」とは「大人」としての自覚を持ち、「大人」として振る舞い、また他者や社会からも「大人」として遇される、ということになるでしょうか。しかしおわかりのように、これでは「成熟=大人」の必要十分条件を何も示したことになっていません。そして実際、ひとが何をもって「大人」として認められるかはケースバイケースです。それはもちろん、ひとはそれぞれに異なる環境や条件のもとに生きているからですが、しかしそれでも、何となく共通理解としての「成熟=大人」のありさまと言えるものはあるように思います。そしてそれもまた、国や地域などによって違いがあり、日本には日本の「成熟」した「大人」のイメージが存在しています。更に言えば、そのイメージもまた、時代とともに変化変容してきました。
 繰り返しになりますが、本書は、庵野秀明と江藤淳という二つの固有名詞を足がかりに、日本社会における「成熟(大人)」のすがたを問い直そうとする長編論考です。筆者の目標はそこにあり、その意味で本書は庵野秀明論や江藤淳論として成立することをあらかじめ退けています。もちろん庵野の主だった作品にかんしては――時には「成熟」論とは無関係な要素についても――かなり詳しく論じていますし、江藤淳の『成熟と喪失』に対しても、既存の評価とは異なったアクチュアルな視座を与えるべく努めたつもりです。けれどもしかし、問題はあくまでも「成熟」、それも「日本的成熟」とは何なのか、ということであり、この点で本書はいわゆる作家論や作品論とは似て非なるものと言うべきかもしれません。
 それゆえに、ということになりますが、本書を読まれるにあたって、庵野秀明、そして江藤淳にかんする事前の知識は、ほぼ必要ありません。両者に多少とも関心を持たない読者が本書を手に取るのかどうか、ということはありますが、筆者としては、極端に言えば庵野にも江藤にも特に興味がなかった方でも、この一冊を通読するだけで、少なくとも本書における読解や分析、そこから導出される主張を理解することはじゅうぶんに可能なように論述を組み立てたつもりです。本書で扱われる庵野秀明の作品や江藤淳の著作をまだ知らない読者も、読めるように書いてあります。もちろん、庵野秀明と江藤淳について一定以上の知識や認識を備えている読者にも、新たな気づきや理解が芽生えるように書かれているはずです。
 このように、本書はいくぶん(いや、かなり?)変わった本です。しかし筆者は、これを広義
の「文芸批評」として提示したいと思っています。詭弁きべんめいた言い方になりますが、文芸批評は「文芸」だけを相手取るものではありません。それは対象となる事物や事象を「読解」すなわち読み解くことによって、潜在的な可能性へと押し開くことです。そして、そのことを通して、世界や人生や自己や他者などといった大文字のテーマに、何かしら新たな発展性を帯びた意味を付与することです。筆者としては、本書によって、われわれが漠然とであれ抱いてしまっている「成熟」なるもののイメージが更新されることを願っています。なぜなら筆者には、それこそが、これからの日本社会に必要なことだと思われるからです。


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