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植物状態の母と娘にしか紡げない「親子の形」と「生きる意味」とは?作家・町田そのこによる、朝比奈秋著『植物少女』書評

 朝比奈秋さんの二作目となる『植物少女』。「小説トリッパー」掲載時より、各紙誌で話題となりました。その際に、SNSで作品を高く評価してくださった、作家の町田そのこさんに「一冊の本」23年2月号でご執筆いただきました書評を掲載します。「生きるとは何か」ということを改めて見つめ直す作品です。

朝比奈秋『植物少女』(朝日新聞出版)

繋がりゆくもの

 本作『植物少女』を読んでいる間じゅう、亡き祖母を思い出していた。

 祖母は認知症とパーキンソン病を併発しており、その進行は俗に言われる“坂道を転がり落ちる”ようではなく、“落とし穴にすぽんと落ちる”ようであった。言葉を用いてのコミュニケーションはあっという間にできなくなり、次いで表情やしぐさから何かを察するということも難しくなった。祖母が病であることを受け入れられたころにはもう、ベッドの上で無表情に虚空を見つめ、奇妙に体をこわばらせていたように思う。

 声をかけても身じろぎしない、ちらりとも微笑まない祖母を前に私が抱いた感情は絶望に似た諦めだった。もう、二度と通じ合うことはできない。私の言葉たちは祖母に届くことはなく、もしかしたら声をかけることは私の自己満足に過ぎない行為でしかないかもしれない、そんな風にも思った。

 そんなことない。ちゃんと分かってくれてる、伝わってるよ。そんな風に言われたけれど、それならそれで祖母は不幸じゃないかと憤った。意志はあるのに何もできないなんて苦痛じゃないか。祖母の日々はただただ苦しみに耐えているだけじゃないか。そんなの、可哀相なんてもんじゃない。悪夢だ。

 苦しみのただなかにいる祖母にどう接していいのか分からないまま日々を重ねた。そうこうしているうちにコロナ禍にみまわれ、会うこともできなくなり、ようやっと会えたのは亡くなってからのことだった。

 祖母の晩年は、果たしてしあわせだっただろうか。苦しみばかりだったんじゃないだろうか。風を感じ日差しの温かさに息を吐く、そういうふとした瞬間にそんなことを思っては、立ち尽くしていた。

 さて、話を『植物少女』に戻そう。主人公美桜の母深雪は、植物状態だ。美桜を産んだ際に脳出血を起こしてしまい、病院にいる。だから美桜は、ベッドで寝たきりの、ただ生きているだけの母しか知らない。

 幼い頃の美桜は、母や他の入院患者たちと時を過ごす。子どもらしい残酷さで身勝手な振舞いをする美桜を、彼らはただただ受け止める。いや、植物状態のひとしかいないから、あるがままを受け入れてもらえていたというべきか。美桜は静かな病室で彼らに囲まれて、成長してゆく。

 しかし病室の外の美桜の世界は、決して生きやすくなかった。病室の中には存在しない様々な感情が溢れている。人間関係に悩まされるし、母親と仲睦まじい友の姿が眩しく映る。母が欠けたせいで、家族もうまくいかないことがある。それらは美桜を振り回すし、傷つけもする。美桜はそのたび病室に向かって母に焦燥をぶつけるが、もちろん母は何も言わない。美桜の荒ぶりをただ受け入れ続けるだけ。

 美桜にとって母は、母だけれどただ息をしているだけの空っぽなひとだった。植物状態だから何にも伝わらないし、何にも分かっていない。だから美桜は、母を求めながらも、可哀相で哀れなひとだと心の底で思っていた。

 でも美桜は気付く。母は空虚に生きている哀れなひとではないということに。母は、病室の彼らは、呼吸を重ねて命を繋いでいる。この世界でちゃんと生き抜いている。

 生とは連なりだ。いまこの瞬間を次の瞬間へ繋げて、生きること。この美桜の気付きに、私は己の心の奥のしこりがほろほろと解けていくような気がした。

 生きるということを考えると、そこに大きな意味や意義を求めてしまっていやしないだろうか? 少なくとも私は、生きるからには何か成さねばいけない気がしていた。しかし、生きることの本質はそこではないのだ。

 そして思い出した。見舞ったときにゆっくりと胸を上下させていた祖母の穏やかな呼吸。握った手の温かさに、どこまでも静かだった空間。私は祖母を可哀相の枠に押し込んでいたけれど、祖母はどこまでもまっすぐに生きていた。可哀相なことも憐れむこともない。少なくとも、私が勝手にジャッジしていいものじゃない。

『植物少女』はまさしく「生きる」を真正面から描いた作品である。読み終えたとき、誰もが生きるという言葉を、意味を、もう一度考え直すことだろう。

 そしてまた、本作は「母と娘」のひとつのありようを描いた作品であることも記しておきたい。母の体に触れ、呼吸を重ね、そして最後まで生き抜いた姿を傍で見つめ続けた娘は、母と過ごしたからこその成長を経た。母は瞬間を真摯に生き繋げたことで、娘に「生きる」という最も大事なことを教え繋ぐことができた。この母娘の、この母娘しかできない交わりの尊さに、私はいまも魅了されている。